2018冬-2019春、ダイバーシティネタコレクション① | スクール・ダイバーシティ

スクール・ダイバーシティ

成蹊高校生徒会の1パートとして活動しています。あらゆる多様性に気づく繊細さ、すべての多様性を受け止める寛容さ、疎外や差別とは対極にあるこんな価値観を少しでも広く共有したいと思って活動しています。

  年度が替わるという大切なタイミングなのにどうして春休みがこんなに短いんだろうっていつも思うんですけど、どうです?とか考えてるうちに今年もついに新年度がスタートしてしまいました。まあ、こんな感じであわただしさのなか、学校のカレンダーは切り替わるわけですが、今回と、たぶん次回も、この年度末、わたしたちの間で共有されたり議論されたダイバーシティネタを列挙して、わたしたちなりにまとまりを着けておきたいと思います。じっくり考えなければならないようなテーマだったり、すぐにでも出来ることをやらなければならないようなテーマが山積みだということが分かると思います。そうすると、だからもっと春休みをということになるわけですが—。

 

 まずは卒業生が教えてくれた貴重な情報から。

 

*60年代に輝いた黒人トランスジェンダーシンガーの訃報

 先日、60年代にトロントを拠点に活動したソウルシンガー、ジャッキー・シェーンが亡くなったそうです。このアーティストについては今回その訃報記事を読むまで全く知りませんでした。でも、トランスジェンダーで黒人のシンガーが一時的とはいえ60年代に支持を得、現在まで音源が残っているという事実に驚きました。彼女の人生について少し調べてみました。日本語になっている記事はほとんどありませんでしたが、唯一私が見つけたものを読む限り、トランスジェンダーで黒人で女性として波乱の人生を生きたことが書かれていました。当時のショービズ界ということでギャングの登場なんかもあって、その人生は一層「ドラマチック」に見えるという側面はあったとしても、今もこのようなマルチなマイノリティ性を抱える人への社会の視線や、そのマイノリティ性を利用しようとする人が存在することはあまり変わらないのではないでしょうか。

 

 音源はここ。ソウルミュージックに興味がある人はもちろん、そうでもないという人もぜひ!

http://amass.jp/117391/

 

 日本語記事はここ(ジャッキーが生きているうちに書かれたもの)。

https://i-d.vice.com/jp/article/8xxmev/the-unbelievable-story-of-transgender-soul-singer-jackie-shane

 

 こんなふうに生きた人がいた、というか、こんなふうに生きざるを得なかった人がいた—という事実、記憶を積み重ねること、共有することは大切だと思います。どうしてこうなった?ほかにどんな可能性が?そして今、可能性は?選択肢は?ということで、目を向けなければならないのは、例えば、ここのところネットでのトランス女性(MTF)ヘイトがひどいことになっているという事実なのです。ここでは、わたしたちが共有したこの現状に抗議する緊急署名活動を上げておきます。

https://wan.or.jp/article/show/8254

 

 つづいては、映画。新旧織りまぜて、分かりやすいダイバーシティ映画から、よく考えると—的なものまでいくつか。ちなみにこのあたりの情報についても卒業生にずいぶん助けられています。

 

*『メアリーの総て』(アイルランド、ルクセンブルク、米、2017)

『フランケンシュタイン』の作者メアリー・シェリー(1797-1851)が、その名作を生むまでの過程を描いた作品です。伝記作品、恋愛モノとしてももちろん観ることはできますが、19C前半、圧倒的男性社会におけるメアリーの立場、「選択する」という発想さえままならなかった女性たちの葛藤―というフェミな見方でおすすめしたいと思います。

 

*『プリティ・リーグ』(米、1993)

去年12月になくなった女性監督、ペニー・マーシャルによる、実在した女子プロ野球リーグの物語です。舞台は第二次大戦中、野球選手が戦場に行ってしまったというタイミングと、どうしても野球を楽しみたいアメリカが生み出した束の間の「女性解放」。当時の、そして今もすっかり変わったとはぜんぜん言えない女性たちの社会的ポジションが鮮やかに浮かび上がります。また戦地に行けない男性たちの思いも読み取れるわけですが、それは男性中心社会が作り上げる理想的男性像からこぼれ落ちた男たちの思いでもあります。基本はコメディ、野球がわからなくても大丈夫です。

 

*『ブレックファスト・クラブ』(米、1985)

アメリカではスクールカースト物の古典として高校の舞台等で取り上げられるようです。学校のない土曜日。何かをやらかした生徒5人だけが登校してきて、1日かけて反省文を書かされる。いかにもやらかしそうな生徒もいれば、なんで君が?っていう感じの生徒も。そして彼らの1日を通じて「学校」という世界が浮かび上がる—という作品です。成蹊にも演劇部があるし、ダイバーシティの活動は他のグループとのコラボもめずらしくないから、少しアレンジして上演したりできたらより身近に感じられるのでは、というアイデアも出ています。

 

 続いて新しい作品、アカデミー賞モノ2本。

 

*『グリーンブック』(米、2018)

「まったく相容れない2人のロードムービー」といういかにもな設定を現代的に使いこなしたダイバーシティフィルム。アメリカ南部、黒人が独り歩きできないような空気すら漂うディープサウスのどこかの国道っぽい道、どしゃ降りのなか、何かを思い切って車を降りて、そのまま歩き始めたドクことドクター・シャーリー、叩きつけるようなあの一連の言葉。公民権法前夜の黒人で、でも圧倒的セレブで、そしてさらなる秘密も抱えた男の、ほとんど絶望的に誰にも分かってもらえない孤独は、必ずこの作品のどこかで決壊せずにはありえません。だからあの場面は、分かっていても打てない―とか、分かっていても止められない―とか、最高レベルのスポーツでたまに耳にするあれです。あの場面、ああ、ここだよね、というタイミングではあるんだけど、それでも刺さります。

 

*「スリービルボード」

こっちは激辛。登場人物は「わけあり」ばかり。そんなぜんぜんあたりまえでない人たちにのしかかるアメリカの田舎町のあたりまえと未解決の凄惨な事件。美しくて正しいマイノリティなんてどこにいるんだよ?という挑発と、それでもなんだか見えるかもしれない希望?すごい名作かと。あの人やあの人についていろいろ話したいけど、それはちょっと許されないと思うのでぐっと飲み込みます。ぜひ!

 

 このところの日本社会、こんなふうにとらえることができそうだ、という議論を2つ。ダイバーシティな発想はたしかに根付きつつあるんだけど、でもそれは基本無防備で、現代的レイシズム的な言動や、もう十分なのにまたそれかよ的な空気に蝕まれつつもある—。じゃあどう考えれば?という議論です。

 

*武田砂鉄「「意見」を嘲笑する空気、異常」(インタビューより)

https://digital.asahi.com/sp/articles/DA3S13855297.html

 …例えば土砂投入の停止を求める署名を呼びかけたローラさんに対し、テレビ番組でタレントがバッシングを浴びせていた。「対案もないのに言うな」と。埋め立てを止めたいと、自分の思いを口にするだけなのに、お前には語る資格がない、と非難される。自分が正しいと思ったことを口にしたら、「正論を言っているだけじゃん」とダメだしされる。そんな社会は異常です。

 「またやってるよ」といった反応も目立ちます。住民が機動隊に排除される映像にいつしか慣れ、「反対反対って言っているだけじゃ変わらないよね」という嘲笑が広がる。嘲笑が繰り返されると、反対運動に参加する住民を「テロリストみたい」と呼ぶような言説さえも、嘲笑の対象となっていく。

 物事を嘲笑して済ませる雰囲気が広がることで結果として、本来は許してはならない発言を見過ごすことになる。だから私はこう言いたくなる。「反対反対って言っているだけじゃ変わらない、と言っているだけじゃ、変わらないよ」と。…空気や気配を察して。あきらめの言葉や慣れが表立ち始めたときに、どう立ち止まれるのか。発言を続けないといけないと思っています。

 

*松田青子「発信者に必要なもの つらい思いへの想像力」(コラムより)

https://www.asahi.com/articles/DA3S13932094.html

 …広告等が炎上したニュース記事を読んでいると、「なんでも駄目になる」「面倒な時代になった」「またポリコレか」などとコメント欄で疎ましげに評されているが、「なんでも駄目」になっていないのは明らかである。「なんでも駄目」ならば、すべての広告が炎上しているはずだ。この問題について考えたくない、という意思が、「なんでも駄目になる」という一言に集約されているように感じる。「面倒な時代になった」という形骸化されたフレーズも、自分はこれまで他者の生きづらさを無視してきたと、堂々と宣言しているのに等しい。「ポリコレ」こと「ポリティカルコレクトネス」は、意味としては「政治的公正」だが、私個人は、「公正さ」「正しさ」という言葉よりも、他者に対する優しさや思いやり、想像力と考えたほうが、感覚的に合う場合もある。自分にとっては何でもなくても、誰かにとっては、つらいことである可能性は常にある。

 

 松田青子さんは、その小説を読めばすぐに分かりますが、分かりやすい人ではまったくない、というか、皮肉だったり、不可思議な舞台設定だったり—を幾重にも織り込んでいく作家で、だから、この部分もそうだけど、引用元の連載コラム「思考のプリズム」(朝日新聞)にしばしば見られたストレートな表明というのは、現状に対する危機意識の表れだと理解すべきなのかなと思います。ちなみに上の一節は、連載最終回からの引用です。

 

 で、どういうことなのかというと、今年度のスタート地点はこのあたりなのかなということです。新年度もやっぱり、めんどうくさいことを、おもしろいことや、やってみたいことに翻訳しながらということで、よろしくお願いします。