文化祭トークライブ「オタクとスクールカースト」 | スクール・ダイバーシティ@成蹊高校

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あらゆる多様性に気づく繊細さ、
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少しでも広く共有したいと思って活動しています。


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 文化祭トークライブ「オタクとスクールカースト」のまとめをお届けします。このテーマについては勉強会の報告をすでに載せていて、そちらの方が情報量は多いのですが、ライブ版は、とにかく限られた時間で伝えたいということで、コンパクトにまとまった内容になっています。そして、なんと言っても、あのときの心地よい緊張感が伝わるといいなと思っています。文化祭イベントステージという校内最大の舞台でわたしたちが考えていることをトークし切るという心地よい緊張感です。当日ステージに上がったのは、生徒4名、ダイバーシティOBの大学生1名、教員1名、計6名でした。流れはこんな感じです。

 

はじめに

1.社会の中のオタク—歴史と今

2.メディアのなかのオタクとスクールカースト

3.オタクのスクールカースト

4.成蹊高校のオタクとスクールカースト2011-16

むすびにかえて

 

では、以下、まとめです。

 

はじめに

進行生徒f:オタクとスクールカースト、高校生にとって、身近ではあるけど、でもそれゆえ、自身がその最中にいるがゆえに、語りにくいテーマをスクール・ダイバーシティが語る、という感じで。

 

1.社会の中のオタク—歴史と今

教員:ほとんど最悪の社会的イメージからスタート。唖然とするようなビジュアルイメージが作られ、浸透していった。1988年から89年の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件でマスコミが犯人の異常性と趣味を結びつけてセンセーショナルに取り上げ、全国に報道された。犯人はビデオくテープ、漫画、雑誌などを多数収集していたが、その中にあったホラー物、ロリコン物がことさらに取り上げられ、事件と関連付けて報道された。

 

生徒m:それにより、「おたく=変質者・犯罪者予備軍」といった認識が普及。オタクと見なされることは社会的には致命的だったと言っても過言ではなかった時期のことをおさえておくのは重要。

 

教員:オタクという名称は「お宅」という呼びから始まった。あの気持ち悪いやつらは互いのことを「お宅」と呼び合ってるというところから。とにかく「フツーの社会」は「オタク」を喜んで笑い、からかい、疎外した、という歴史。

 

進行生徒f:ところが、蔑称だった「オタク」は今やなんだか「ステイタス」?みたいなところすらある。「オタク女子」が描く「普通女子」「リア充女子」はすごくつまらない人たち。「オタクしてない子たちって一体何を楽しみに生きてるの?」的な上から目線もある。

 

生徒m:オタク自体も多様化したし、オタクに対するスタンスも多様化しているのでは。世代によってもイメージは違うし、地域や学校、学年、クラスによっても違うだろう。でも、いずれにしても、「オタク」一般のイメージは少なくとも日本では好転している。「オタクだから嫌い」というのはなくなったのでは。でも、どうして好転したんだろう?

 

教員:オタクにはある種の新しさや知的な深さがあって、それはときに目を見張るようなレベルにあることも広く知られるようになってきた。とするとこの流れをつかまえられない誰かたちの方が、むしろ痛い人たちということになるだろう。というわけで「残念なオタク少年が特別な能力で活躍」系がたくさん描かれることに。

「持ってるオタク」と「疎外されても仕方ないオタク」。社会は「持ってるオタク」については市民権を与えた。

 

生徒f:リア充オタクも好転の原因?「ちょっと変わってる自分アピール」の手段としての「オタク」というやり方。ただ、こっちは「変わってる」というよりも「ちょっと変わってる」というニュアンス重要。

 

大学生m:「リア充」という言葉は、そうではない誰かたちがやっかみ&自虐&揶揄を込めて使い始めた言葉だよね。で、その誰かたちはオタクであることももちろんあるわけだけど、オタクはあたかもリア充の「対極」であるかのようにとらえられている。でも一方で「リア充オタク」の「オタク」性は「アクセサリー」であり、「プラスアルファ」てあって、だから本物を自認するオタクからは「にわか」扱いされる。

 

進行f:重要なことは、このとき「オタク」はポジティブな価値を前提に語られているということだ。(だからこそにわかが出てくるのだ)

 

生徒m:ただし「オタク」という言葉がイメージさせるすべてがポジティブな価値を認められたわけではないという点も重要だ。価値を認められたのもオタク自身ではなくてその「対象」だ。そこに目をつけることやそれを理解できることがポジティブな価値を持つのであって、「オタク」がイメージさせる人柄、そしてファッション、たたずまいについては、依然としてネタのままであって、そっちの方はしっかりと継続中なのでは。

 

生徒m:だからこそ、オタクであることを隠していないとやばい思う人もいる。やっぱり「ありなオタク」と「アウトなオタク」はある。

 

2.メディアのなかのオタクとスクールカースト
教員:最近、千葉県で起きた切断遺体事件 姉が弟を殺した事件だけど、その姉について、アニメ好きでゲーマーという側面があるかのような取り上げられ方なんか見てると、アウトなオタクを見たがってるような感じがする。

 

大学生m:コミケを紹介するメディアの論調もなんかつねに微妙。なんかいつまでたっても「新しい奇妙な何か」的な論調…など、実際にはもうほとんど存在しないような「いかにもなオタク」を社会一般は求めている。

 

生徒f:でも、さっきも見たけど、オタクの新しさや知的な深さが広く知られるようになってきた。「君の名は」「おそ松さん」などジブリ以外のアニメ作品が一般大衆の中でも人気になってるし。

 

生徒m:やはり、オタクたちが目を付けた「優れモノ」については多くの人がその素晴らしさに気づいたということでは。メディアによるオタクの取り上げ方も、昔ほどはひどくなくなってきている…?

 

大学生m:とはいえそれでも「ヤバいやつら」としてのオタクはやっぱり求められているのでは。一度手に入れた「都合のいい他者」を失いたくないし、楽しみ尽くしたい欲望を感じる。社会一般には、オタクを、20数年来親しんだ「あのイメージ」で語ってしまいたいという欲望があるのを感じる。

 

3.オタクのスクールカースト

進行生徒f:スクールカースト一般の説明をしておきたい。現代の学校空間では、クラス内にいくつかの友達同士のグループが形成され、それらの内部で活発に交流が行われるだけで人間関係が完結する現象がみられる。そして、教室内の各グループは等価な横並び状態にあるのではなく序列化されている。序列については図を参照。

 

生徒m:教員の考えるスクールカーストとして、例えば鈴木翔『教室内カースト』だと、下位の人間は社会に出てもうまくいかない、上位層の方はなんだかんだいって能力があると考えている教員もいる、というのが紹介されているけど、どうか。

 

生徒f:生徒の考えるスクールカーストは能力の序列ではない。例えばコミュニケーション能力、ノリの良さ、押しの強さ。勉強の成績や運動能力にそこまで関係していないのでは?

 

進行生徒f:教員は状況を変えられるか?

 

教員:教員のやるべきことは価値観の物差しをたくさん示していく、生徒のかなに放り込んでいくということで、そういう働きかけが可能なのでは。それやらないと。スクールカーストと能力という場合の「能力」が多様であれば、カーストは固定化しないはず。

 

生徒f:そもそもスクールカーストのなかに教員も位置づいているという観点がありうると思う。どのカーストにいるかどのカーストの生徒と結びついているかによって、コントロールの程度が決まってくるという発想。

 

教員:現状がそうなっていることを、教員は認めないといけないだろう。そうすれば対応の仕方だって変わってくると思うし。

 

生徒m:カーストはなかなか変化しないと思うが、でも、それが動揺する場面はある。例えば映画「桐島、部活やめるってよ」の野球部キャプテン。カーストは上じゃないだろう。ダサいし。でも下でもない。上位ではないが「地味だけど生きがいがある努力家」。こういう存在はスクールカーストを動揺させるし、超越している。どの学校にもいるのでは。

 

大学生:主人公は映画オタクで、「さえないオタク」として描かれてきたけど、最後の場面で彼もまた「地味だけど生きがいがある努力家」であることがはっきりとヒロキに伝わる。あのヒロキが涙流す場面。じゃあ、近年のオタクの一般化という状況の中で増殖する学校のオタクはスクールカーストを変えるのか?

 

教員:例えば、「カースト外の若干名」ってどんな人たち?これ考えると見えてくるんじゃないだろうか。はっきりとした自分の物差しを持ってる人?

 

進行生徒f:ところで、ということで、成蹊は?

 

4.成蹊高校のスクールカーストとオタク2011-16

生徒m:オタクたちもまずまずの居心地だと思う。それはなんでだろう?オタクを公言する外部生が入ってきたので空気が変わったこと、人数が増えるとコミュニケーション能力の高いオタクも出てきて、上位カーストにも一気に伝わったなどで、オタクを公表しやすくなりさらにオタクが増えた?
 

生徒f:中学まではオタクを言いづらく、ばれると引かれる事もあったのに、高校からオタクに寛容になった。なぜか?中学から高校に上がるときにスクールカーストの地殻変動がある?成蹊はオタクの存在が最底辺ではないような。
 

生徒m:スクールカースト逆転は難しいって本の事例は示してるし、固定化されたカーストを変えるのは確かにたいへんそうだけど、でもさっきの地味な努力家のような存在やカースト外間の存在もカーストを揺るがすはず。

 

生徒f:成蹊は担任団が3年間その学年を担当するという制度だから、担任団が構成する雰囲気も大きな影響を与えるのでは。

 

生徒m:変化はあると思う。スクールカーストとは別に、オタク内カーストといえそうな階層化がすでに進んでいるて、そのオタク内カーストがスクールカーストを動揺させたり、そこに亀裂を入れる世界は、そんなに遠くない気がする。

 

教員:あらためて。生徒側からできることってどうだろ。

 

進行生徒f:生徒にとって「すべての人が居心地よくするために」スクールカーストの力は弱い方がいいはず。なくすことは不可能かもしれないけど、「無数のカースト」だったら?例えば、今の高3は朝礼で「おもしろかったもの紹介」というのをやってきた。一人ひとり自分のおもしろかった本や映画やマンガとかいろいろを持ち寄って紹介するというやり方。これは生徒の側がたくさんの価値観を提示し合うことになるし、思いもよらない生徒がハッとするような趣味のよさやカッコよさを示したり、つまり、そのとき序列に亀裂が走る。

 

むすびにかえて

大学生:数年前ずいぶんひどいこともあった。例えば、食堂は一人ではとてものんびりできないような空気感。食堂の特定のテーブルが実質的に特定の強い部活のテーブルになっていて、知らないでそこに座ってしまうととても残念な感じになってしまったり。そういうことを知らないのもカースト下位の特徴でもあるわけだけど、かわいそう。で、ダイバーシティは食堂テーブル独占対策のため、窓際に「おひとり様席」を作ったりしてきた。で、こういうことの延長線上にダイバーシティが作った「宣言」、「多様性と平等についての宣言」がある。

 

生徒m:じゃあ「ダイバーシティ宣言」がカースト下位の力になれるか?

 

進行生徒f:「ダイバーシティ宣言」をみんなに伝えることでたくさんの価値観を示せたら、周りの人の見方を確実に変えられると思う。ちゃんと見てもらえれば分かるけど、ここでは本当にたくさんの、まさに多様なあり方が尊重されている。今までは気にも止めなかったようなことに気づいたり、下だった人の違った面に気づいたり、それで自らが変わったり、というきっかけになると信じてるし、そういう経験は小さな経験だけど、楽しい。

 

生徒m:僕らはほんの少しその手助けをしたくて「宣言」を生徒手帳に載せたいと思っている。そして、こういったことは間違いなく、いいことだと思うけど、ただ、正義な発信は、細心の注意を払ったとしたも、簡単にウザくなってしまうし、すごくカッコ悪くなってしまうこともある。それはよくわかっている。照れくさいときもあるし。

 

進行生徒f:こんな感じで、わたしたちは、ときに照れながら「正義」と言われるようなことをやっているが、でも、それでも一歩踏み込む必要のある時もあるし、そうする中で新しい世界が開けたり、誰かとポジティブな関係を築くこともできる。このスクールカーストについてもそう。だから、みんなで、ちょっと照れながら、「正義」なことを考えていければと思っている。

 

イベントステージでの「オタクとスクールカースト」

 

教室会場での「オタクとスクールカースト」

 

 と、こんな感じのトークライブでした。ダンスやコントなどが目白押しの文化祭イベントステージで、ダイバーシティトークは、しかし、たくさんの観客を集めて、それ自体インパクトを与えることができたかなと思っています。それから、内容についてもきれいごとではないスクールカースト論につながりそうな何かを残せたのではないかと感じています。とにかく、話す側も聞く側も全員当事者といっていいテーマを扱って、ひりひりするような話も盛り込めし、ウザくならないように最新の注意を払って活動を考えていること、でもときには照れながらでも正義を語らなければならないと考えていること、というわたしたちのスタンスのもっとも大切なところに踏み込めたのもよかったと思います。

 

 次回更新では、文化祭もうひとつのトークライブ「ジェンダーとわたしたち―え、男同士で?」のまとめをお届けする予定です。

 

トークライブで直接内容に言及した文献、映画については挙げておきたいと思います。

 

・鈴木翔『教室内(スクール)カースト』(光文社新書2011)

・堀裕嗣『スクールカーストの正体』(小学館2015)

・映画『桐島、部活やめるってよ』

 

 参照しなければならなかったものはたくさんありますが、例えば、オタク論としては、宮台真二監著『オタク的想像力のリミット―歴史・空間・交流>から問う』(筑摩書房2014)。間に合いませんでした。もう少し勉強できたかな、というのはあります。では、また。

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