赤毛のアンシリーズは、第6巻「アンの夢の家」を読んだ後に中断中。
手元にないので仕方ない。
でも!
赤毛のアンシリーズを手掛けた翻訳家、村岡花子の孫にあたる村岡恵理が、
花子の生涯を描いた「アンのゆりかこ 村岡花子の生涯」が手つかずのまま残っていた!
大好きな赤毛のアンシリーズ、ついアンにばかり気持ちが行ってしまうのだけど、
アンのゆりかごを読んだら、目からうろこ。
第二次世界大戦のさなか、東京大空襲に遭いながらも、
家族の命の次に大事な赤毛のアンの原稿を守り抜き、
昭和27年の5月に出版されたのだった。
1893年甲府で誕生した安中(旧姓)はな(花子はペンネーム)、10歳の時にクリスチャンの父親に連れられて東洋英和女子校に給費生として編入した。
編入してすぐはミッションスクールの習慣になじめず、英語もまるでわからなかったが、
カナダ人婦人宣教師たちとの寄宿生活と書籍室にある18~19世紀の英米文学を片っ端から読み、めきめきと頭角を現していった。
同時に佐佐木信綱の「竹柏会」に入り、日本の古典文学も学んだ。
そして20歳の時に東洋英和の高等科を卒業。
翌年、実家の家計を助けるために、山梨英和女学校に教師と赴任し、
この頃から童話や少女小説を執筆する。
子供から大人へと成長の過程で心の指針となるような本が、
英米に比べ日本では重要視されていないとの実感が花子にはあった。
1917年に初めての本「ろへん」を出版したことがきっかけとなり、東京に戻り出版社に勤務。
印刷業者の御曹司、村岡儆三と出会い、長男道雄を出産した。
この頃、字が読めない幼児に母親が読んで聞かせられるような絵本は少なかった。
1922年の関東大震災では、肉親を失い、印刷会社も倒壊。
生活のためカナダ人婦人宣教師仕込みの英語力を武器に仕事に勤しんだ。
少しずつ精気を取り戻しつつある夫婦に、さらに大きな悲しみが。
道雄が6歳になる前に疫痢で他界してしまう。
自分の子は失っても日本中の子供達のためにと「王子と乞食」を翻訳。
道雄の後、子供に恵まれなかった花子は、
妹梅子の長女みどり(道雄と同じ誕生日)を養女に迎えた。
1939年には第二次世界大戦が始まる。
英語は敵国語とみなされ、東洋英和のカナダ人婦人宣教師たちも日本を去っていく。
花子の友人、カナダ人のミス・ショーが帰国の際、友情の記念にと贈ったのが、
モンゴメリの赤毛のアンだった。
空襲の日々でも、平和な日が必ず訪れると信じ翻訳を仕上げた。
赤毛のアンが刊行されたのは、ミス・ショーに原書を贈られてから13年が経ってからだった。
花子が生きた明治から昭和は、戦争が次々と起こり、女性が社会で活躍するのは難しく、
未成年禁酒活動、公娼制度制度廃止、婦人参政権獲得運動などが推進されていた時代。
激動の時代に、自身の探求する文学を常に社会に還元してきた素晴らしい女性。
アンの故郷、プリンス・エドワード島を訪ねる計画もあったが、
心の中の想像の風景が失われるような気持ちもあり、夢を夢のままにしておきたいと、
結局訪れることはなかった。
「炉辺荘のアン」を読むのがとても楽しみになった![]()
