隣の部屋に移動すると、業者の男は段差の縁のキズを指摘してきた。しかしそのキズは明らかに黒ずんでいて最近ついたとは言い難い年期の入ったキズだった。
私は先ほどの本棚の下の無関係そうな凹みといい、この年期の入った縁のキズといい、全てを自分のせいにされることが堪らなくなってきて、鬱積した感情をついに表に出してしまった。
「このキズは黒ずんでますしだいぶ古いですよね。さっきの床の凹みも思い当たらないですし、全部を私の負担で補修するというのはちょっと納得いかないですね」
すると業者の男は私の顔を見て初めてニターッと笑った。今までやけに不愛想な男であったが、なぜここで笑みを出すのか不可解なタイミングだった。
「私は別にお客様の敷金から引く金額が多いほど成績になるような仕事ではないんで、安心して下さい」
この後からその男の表情が多少ゆるんだような気がした。どういうことを言ってくるのか予想がついたので向こうも警戒心が解けたのだろうか。私も一円でも引かれたら嫌というほど非常識な無理を通すつもりは無いが、この男が細かく調べて分かった昔に補修すべきだった箇所まで一緒に負担してあげるほどお人好しでもない。
次々と補修箇所を指摘されて安心しろ、というのも無理な話だが、とりあえず最後まで聞くことにした。
キッチンでは換気扇がやけに汚れていると言われた。そんなに料理をした記憶は無いが、アジの干物を好んで焼いていた時期があったので油が付いたのだろうか。
水回りでは風呂の鏡の水アカを指摘された。驚いたのはトイレで、便器に向かって立った際に背中側の壁に男が例のブラックライトを当てると水しぶきのような汚れが浮かび上がった。このライトが無ければ分からなかったと思うが「立ってトイレをされると後ろにも飛んで汚れになります」と言われた。
その場では納得したが、いったいどうして後ろに水しぶきが飛ぶのかよくよく考えると不可解ではある。奥さんに小も座ってしろと怒られる旦那の笑い話を読んだ記憶があったが、こういう理由なのだろうか。
これもでも後で考えると故意に汚した訳でも無いので、普通に生活していてついた汚れに入るような気がする。
最後に男はおもむろに鼻を壁にあてて「タバコは吸われていなかったようですね」と判定したように言ったが、私は電子タバコを普通に吸っていたし、たまに紙タバコも吸っていた。
私は黙っていたが、心の中で嘲笑って舌を出していた。細かいことも見逃さず完璧そうに見える男も案外見掛け倒しなのかもしれない、とよほどこのことに安心させられた。
全ての説明が終わって、さて、見積もりをどうするかという話に差し掛かった。お互いに腹を探り合って、落としどころを探す段階だ。