手打:新田神社 | 古代文化研究所

古代文化研究所

古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○甑島には新田神社が二社存在する。一つは里の新田神社であり、もう一つが手打の新田神社になる。里の新田神社については、次のブログに書いている。

  ・テーマ「甑島周遊」:ブログ『里八幡神社の大般若波羅蜜多経』

  里八幡神社の大般若波羅蜜多経 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)

  ・テーマ「甑島周遊」:ブログ『里村郷土誌:里村新田八幡宮]』

  里村郷土誌:里村新田八幡宮 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)

○また、新田神社そのものは薩摩川内市に鎮座まします大社である。当古代文化研究所では、これまで、何度も、参詣している。

  ・テーマ「吉野山の正体」:ブログ『可愛山陵参拝記①』

  可愛山陵参拝記① | 古代文化研究所 (ameblo.jp)

  ・テーマ「吉野山の正体」:ブログ『可愛山陵参拝記②』

  可愛山陵参拝記② | 古代文化研究所 (ameblo.jp)

○最近では、2021年正月8日に参拝している。

  ・テーマ「日向国の邪馬台国」:ブログ『神代三山陵:可愛山陵』

  神代三山陵:可愛山陵 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)

○このように、新田神社が斎き祀るのは彦火瓊々杵尊であり、新田神社が鎮座まします神亀山を彦火瓊々杵尊の御陵、可愛山陵だとしている。また、薩摩国一宮を自称する神社でもある。

○何しろ、薩摩川内市は旧薩摩国国府の存在した地であり、現在でも、鹿児島県で鹿児島市に次ぐ大都会でもある。その影響力は計り知れないものがある。そういうものにあやかって、甑島には、二つの新田神社が勧請されている。

○これまで、一回も手打の新田神社に参詣していないことが気になっていた。したがって、今回の旅行では、手打の新田神社へ参詣することが主目的の一つであった。2021年7月16日、手打集落散策の際、最初に訪れたのが新田神社だった。

○県道349号線と武家屋敷通りが交差するところに、手打のスーパーがある。近くに田畑のバス停もあって、ここら付近が手打の繁華街である。そのスーパーの横を入って行った先に手打の新田神社が鎮座まします。

○手打の武家屋敷通りは手打海岸から一歩中へ入った通りで、東西に1キロメートルほど続いている。その西端が新田神社になる。東端は甑島地頭仮屋跡になる。車一台が通れるほどの狭い道である。ここが嘗ての手打のメインストリートだったわけである。

○県道349号線から西へ100mほど進んだ先に、新田神社の鳥居が存在した。車を停めるスペースが無い。神社横が空き地になっていたので、そこへ停めさせていただいた。ことわりを言うにも、誰一人見掛けない。

○神社の境内に、新田神社の縁起が記されていた。それには次のようにあった。

      新田神社(八幡新田宮)

   小川氏領地の時勧請すといわれ、大永三年(西暦一五二三年)小川伊勢守

  天文四年(西暦一五三五年)小川豊千代丸修造の棟札を蔵む。往古は下甑の

  宗廟であった。

   手打字宮薗一三一二番地の二に鎮座され、主神は瓊瓊杵尊、天照皇大神と

  して、神功皇后、應神天皇、玉依姫を祀ってある神社である。

   側之宮に六王大明神を祀る

   祭祀  九月十九日  二月四日

○「下甑村郷土誌」で確認すると、第二編歴史、第一〇章中世、第二節南北朝・室町時代の項目六に、「新田神社(手打)鎮座」が存在する。それには、次のようにあった。

      六 八幡新田宮、手打に鎮座

   小川氏領地の時、勧請すといい、大永三年(西暦一五〇三年)小川伊勢守、

  天文四年(一五三五年)小川豊千代丸、修造の棟札を蔵め、下甑の宗廟とされ、

  祭日九月十九日、祭神、神功皇后、応神天皇、玉依姫となっている。

〇意外に、「下甑村郷土誌」の記述は簡素なものであって、新田神社の主祭神も薩摩川内市の新田神社の祭神とは違って、普通に八幡宮の祭神を採用している点が注目される。

〇季節がら、鹿の子百合がきれいに咲いていた。手打の新田神社に参詣して気付いたことだが、手打集落は、ほとんど砂丘の上に存在する。新田神社境内も完全な砂丘の中にあった。これまで、気付かないことであった。手打の砂丘は、相当、大規模であることが判る。