天皇家の故郷~狗奴国の風景~ | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○前回は、邪馬台国の話をしたので、今回は、その邪馬台国とライバル関係にあったと思われる狗奴国について、検証してみたい。

○「魏志倭人伝」での狗奴国の記述が一種独特なのも、注意する必要がある。投馬国からの記述から案内すると、

   南至投馬国水行二十日。官曰彌彌副曰彌彌那利。可五万余戸。南至邪馬壹国。女王之所都。水行十
   日陸行一月。官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮。可七万余戸。自女王國以北、其戸數
   道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、
   次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次
   有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有為吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有
   支惟國、次有烏奴國、次有奴國。此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、
   不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。

●要するに、「魏志倭人伝」が記述する倭国は、
  ・女王国邪馬台国を盟主とする29国。
  ・女王国に属さない狗奴國。
の30国で構成されていることが判る。つまり、狗奴國は女王卑弥呼を盟主とする倭国同盟に加わっていないことに留意する必要がある。

●その狗奴國の具体的記述は、
  ・其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、
   不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。
と、後に、
  ・倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻擊狀。
   遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢、拜假難升米為檄告喩之。
と記す。

●狗奴國の記事に、『狗古智卑狗』とあることから、狗奴國を熊本県菊池市に比定する方がいらっしゃるが、とんでもない話である。『狗古智卑狗』は狗奴國の官に過ぎず、王は『卑彌弓呼』と明記している。王の名を国名とせず、官名を国名とすることなど、あり得ない話である。

●また、邪馬台国北九州説では熊襲国を狗奴國とする方が多い。確かに「古事記」が記す『熊曾国』は、南九州に該当する。しかし、「古事記」が記す『熊曾国』は、あくまで『熊曾国』であって、『熊襲国』ではない。本来、『熊曾国』は、『神の祖国』の意であり、佳字佳語なのである。それに対して、『熊襲国』は、後世の差別用語に過ぎない。安易に後世の用語から推測することは危険である。もちろん、『熊曾国』は『元日向国(日向国・薩摩国・大隅国)』の意であるから、狗奴國に該当するはずもない。語呂合わせも甚だしい。仮にもし、熊襲国が狗奴國なら、「古事記」は、当然、その北に邪馬台国の名もも明記しているはずだろう。

●邪馬台国畿内説では熊野を狗奴國とする方が多い。しかし、熊野地名は西日本各地に存在する地名である。それに和歌山県の熊野地名は明らかに南九州から移入された地名に過ぎない。詳しくは、本ブログ、書庫「奥駈道を歩く(吉野から弥山まで)」の中に、
  ・ブログ:『吾平山陵の正体』
  ・ブログ:『吾平山陵の正体◆
  ・ブログ:『狗奴国三山』
として詳述しているので、参照されたい。我々が想像する以上に、意外と歴史は古く、そして深い。

●他に、留意すべきは、何と言っても、南九州三国の規模の大きさであろう。
  ・投馬国=可五万余戸
  ・邪馬台国=可七万余戸
は、明記されている。その邪馬台国と敵対する狗奴國が小国であることを考えることは難しい。やはり、投馬国や邪馬台国と同程度の国家規模だと考えるのが普通だろう。

●南九州三国の、投馬国・邪馬台国・狗奴国が、三世紀当時の倭国において、最大規模の国家であった。同等の国もあったかも知れないが、「魏志倭人伝」が記すのは、南九州三国以外の大国は、奴國の二萬餘戸に過ぎない。

●南九州三国の位置関係も重要である。
  ・投馬国から南に『水行十日陸行一月』で、邪馬壹国。
  ・二十一ケ国までが邪馬台国の倭国で、其の南に狗奴國が存在。
この中で、『水行十日陸行一月』は、おそらく『水行十日陸行一日』の誤記。二十一ケ国は中九州に存在すると思われる。

●そうすれば、
  ・投馬国の南に邪馬台国。
  ・邪馬台国の南に狗奴國。
となる。

●念の為、確認しながら案内すると、
  ・帯方郡から末盧國まで萬余里。
別に「魏志倭人伝」は、
  ・⊆郡至女王国萬二千余里。
とも記すから、
  ・倭国本土の末盧國から邪馬台国までは二千余里。
また、別に「魏志倭人伝」は、
  ・セ果簣礎論篋潦っ羹V最珪紂或絶或連周旋可五千余里。
とも案内しているから、倭国『周旋可五千余里』での邪馬台国の位置は、
  ・右回り→三千余里
  ・左回り→二千余里
となる。

●その、
  ・右回り→三千余里
が、「魏志倭人伝」が案内するルートである。それを規定する言葉は『投馬国』にある。大国『投馬国』を案内することで、倭国を右回りしたか、左回りしたかが明らかとなる表現法となっている。

●結果、
  ・投馬国=日向国
  ・邪馬台国=薩摩国
  ・狗奴国=大隅国
となる。それはまた、倭国の『左回り→二千余里』にも、しっかり合致する。

●厳密には、薩摩国の南に大隅国が位置するわけではない。両国は東西に、ほぼ並行に並んでいると言った方が正確であろう。しかし、薩摩半島より、大隅半島の方がより長く南に伸びていることは間違いない。

●随分、南九州三国の位置関係に手間取ったが、肝心の狗奴國の風景について述べたい。上記したように、狗奴國に関する「魏志倭人伝」の記述は二つしかない。再掲すると、
  ・其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、
   不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。
  ・倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻擊狀。
   遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黃幢、拜假難升米為檄告喩之。
これで、狗奴國の風景を述べることなど、誰にも出来ない。

●しかし、逆に
  ・投馬国=日向国
  ・邪馬台国=薩摩国
  ・狗奴国=大隅国
と規定したことで、狗奴國の風景は極めて具体的に提示することが出来る。それがまた、狗奴國を確定することにもなっている。

●第一に、大隅国には、狗奴国の残像が色濃く残されている。地名としても、『救仁郷』や『救仁院』、『救仁湊』などが挙げられよう。それは、江戸時代の、
  ・「麑藩名勝考」
  ・「三国名勝図会」
  ・「薩隅日地理纂考」
などに、記録されている。

●第二に、狗奴国=大隅国に、神代三山陵が存在することである。現在の神代三山陵の比定地は、明治七年(1874年)に、天皇の御裁可により、
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
となっている。しかし、この神代三山陵の比定地の仕方には大いに問題がある。第一、神代三山陵の第一人者である、白尾國柱の意向を無視した神代三山陵の比定など、考えられない。現地にもっとも詳しいのが白尾國柱なのであるから。

●詳しくは、本ブログの書庫『神代三山陵の研究』に、15回に渡って詳しく検証しているので参照していただくしかない。

●結果、
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属郡肝属町内之浦の甫与志岳(叶嶽)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属郡肝属町内之浦の国見岳(高屋山)
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵
とするしかない。

●彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の子は、『神倭伊波禮毘古命』と申し上げる。所謂、『神武東征』の主人公である。そして、その『神倭伊波禮毘古命』こそが初代天皇である。

●奈良県橿原市では、樫の古木が発掘され、注目され、それがさも橿原地名の語源でもあるかのように喧伝されているが、そんなことはあり得ない話なのである。何のことはない。橿原地名は移入された地名に過ぎない。樫の古木が発掘されたことは偶然に過ぎない。さも考古学者が思いつきそうな発想ではあるけれども。

●『神倭伊波禮毘古命』が『神武東征』に御発航なさった港が、『柏原』地名なのである。それを記念して命名されたのが『橿原』地名であることは誰の目にも明らかだろう。単なる偶然を針小棒大に発表してはならない。樫の木の古木など、日本全国何処にでも出土する。

○歴史は繋がっている。決して孤立した存在ではない。「魏志倭人伝」の記録は、そのまま「古事記」・「日本書紀」の中に記録され、「万葉集」にも詠われている。そう考えるのが史家だろう。

○日本創世を「古事記」・「日本書紀」が旧日向国と記録するのは、決して偶然ではない。そこが大和朝廷の故郷であり、邪馬台国が存在したところなのだからである。

○同じように、「万葉集」は大和三山が南九州に存在したことを明らかにする。その大和三山の一つ、畝傍山の麓に、『神倭伊波禮毘古命』は橿原宮を造営なさったと言う。実は『神倭伊波禮毘古命』の誕生地が畝傍山の麓であることを考えた場合、歴史の意味する恐ろしさを痛感させられる。

○寡聞にして、そんな話を考古学が語る邪馬台国から聞いたことがない。一介の遺跡や遺物が語る歴史は空想と想像に充ち満ちている。もうそんな虚論を語る時代ではない。

○まだまだ、邪馬台国は多くのことを私たちに語り掛けて止まない。そういうものをこれから「魏志倭人伝」に見ていきたい。