祇園社乱闘事件 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯前に、ブログ『忠盛灯籠』を書いた。その『忠盛灯籠』の案内板の下に、次の案内板が設置してあった。なかなか面白いので、今回、ここで取り上げておきたい。

      祇園社乱闘事件

   八坂神社(当時は祇園社)の境内で今から八六五年前に、平清盛に関わる

  乱闘事件がありました。

   時は久安三(一一四七)年六月十五日、祇園臨時祭(祇園御霊会、現在七

  月二十四日に行われている還幸祭の翌日に当たり、朝廷から奉幣が行われた)

  の日の事。

   中務大輔平清盛は心に秘めた宿願を果たさんと、祇園社に田楽を奉納します。

   この田楽を守護していたのが清盛の郎等達、兵仗を帯び祇園社へと赴いた彼ら

  にこの後思わぬ事態が待ち受けています。

   武装した彼らを見、祇園社の神人(下級神職)はその解除を求めます。しかし

  清盛の郎等はその要求を受け入れず、ついには乱闘へと発展、祇園社の権上座

  隆慶をはじめ負傷者まで出る始末。乱闘騒ぎは深夜にまで及びさらにこの後も

  尾を引きます。

   六月二十六日になって祇園社の本寺であった延暦寺はこの乱闘の事を訴えます。

  これに対し播磨守平忠盛は乱闘の下手人七人をすぐさま検非違使に引き渡します。

  事態はこれで収拾するかと思われましたが、延暦寺衆徒らの怒りは治まりません。

   二十八日、延暦寺の衆徒と日吉・祇園両社の神人は清盛と父・父忠盛の流刑を

  訴え神輿を昇いて入洛しようとします。神々の神意の体現とされた神輿の動座を

  伴う強訴(神輿振り)は当時人々に大変恐れられていました。これに対し鳥羽法

  皇は「道理に任せ裁許する」と回答し、ひとまず彼らを帰山させます。

   しかしなかなか裁許は出ません。洛中には衆徒らが再び入洛しようとしている

  という声が頻繁に聞こえてきます。

   事件の実検を行った法皇が、清盛の罪を決したのは八月五日になってのことで、

  その内容は贖銅(実刑の代わり銅を納めること)という軽いもの、忠盛・清盛と

  鳥羽法皇との関係の深さを物語る歴史の一幕でした。

   さて、乱闘事件の顛末では平忠盛・清盛父子を擁護した鳥羽法皇は、祇園の神

  に対する謝罪を何度も行っています。中でも久安四(一一四八)年二月二十日に

  は法華八講が修され、これが当社における法華八講の初見となりました。

          平成二十四年壬辰記

◯なかなか興味深い話である。現在の八坂神社は、当時、延暦寺の末寺であったことが確認される。そうでなくては強訴はしない。結果、翌年、八坂神社で法華八講が修されたと言う。法華八講は神社で催されるものではない。当時、八坂神社が寺であったことは間違いない。

◯この話は、ウィキペディアフリー百科事典が、祇園闘乱事件として、詳しく伝えている。

      祇園闘乱事件

祇園闘乱事件(ぎおんとうらんじけん)は、久安3年6月15日1147年7月14日)に祇園社神人平清盛郎党が小競り合いとなり、宝殿に矢が当たり多数の負傷者が発生した事件。平忠盛・清盛父子の配流を求める延暦寺強訴の引き金となった。

◯説明が長いので、後は略するしかない。この事件の後、急速に武家が台頭するようになる。その契機となったのが延暦寺の強訴であることもまた興味深いものがある。後年、信長が比叡山焼き討ちを決行した原点が、ここにあるような気がしてならない。