言葉を使う時のTPOという問題 
 
 前回、小説「コンビニ人間」(村田紗耶香・著)に出てくるエピソードを取り上げて、言葉の問題を考えてみました。男の子同士のケンカを「誰か止めて」と聞いて、スコップを持ち出す主人公の「私」、ヒステリーになった女教師に「やめて」というのを聞いて、走り寄ってスカートとパンツを脱がしてしまう主人公の「私」の話。どうしたら「治る」のかという家族、「治らなくては」と思う「私」。
 
  そこで、このエピソードを元にして言葉というものについて角度を変えて考えてみます。哲学のメガネをかけてみましょう。メガネのレンズは、拡大レンズか望遠レンズかわからないですが・・・。
 
 2つの出来事はとっさの事で、場に居合わせた皆の願いを受け、苦肉の策の面もあるでしょうが、「止めて・やめて」というコトバに引っかかっていないわけではない。端っこにかかっている。けれども、ふつうはそういう行動(スコップ・脱がす)はしない。 
 
 そう考えると、この話は、
A・コトバに表わされる内容や意味には幅があることがある
B・しかし、幅がありすぎると困るので、コトバは、その時その場に相応しくて誰にも流通しやすいように使われる
という、コトバをめぐるAとBの矛盾(矛盾と言って良いかわからないですが)が吹き出した問題だと言うこともできます。
 
 そこで、喩えとして「扇の形」の画像を用意しました。コトバは、扇の形くらいの幅があるとします。
 主人公の「私」は、「止めて・やめて」というコトバ(扇の形)の端っこに引っかかっています。(A 引っかかっていないわけではない)
 
 けれども、通常、この場面では「止めて・やめて」を意味する中心(B・真ん中の日の丸)からはズレて端っこ過ぎるということです。
 
 「TPO」ということがよく言われます。(時time、所place、場合occasion) コトバの字義通りや表面に出ない、分別・心得・わきまえ・常識・場の空気などを読む必要があるというわけです。
 
 小説「コンビニ人間」には、発達障害という言葉は一切出てきませんが、それを彷彿させるものがあります。そして、発達障害の人のみならず、私たちだって、言葉通り受けとってはいたがどうも違っていたとか、どう空気を読んだらいいかとか、苦労したことが思い当たるのではないでしょうか。 (この話、次回に続けます。)