勤行に際しての方便品・寿量品 (1)

 

妙法蓮華経方便品第二

 

 妙法蓮華経方便品第二と読誦し奉りし時……

『妙法蓮華経』は釈尊の妙法蓮華経ではなくて、大聖人様の妙法蓮華経方便品第二であると心に念ずるのである。方便品とは方便の課ということであって、方便には次の三種類がある。

 

一、法用方便、これは衆生の機根にたいして法を与えるのであって、衆生が偏を好めば偏教を説き、円を好めば円教を説いて、仏の心をさしはさまない方便である。

 

二、能通方便、衆生の機根にたいして法を説くのであるが、機に応じた説法は真実ではなく、真実にはいるための門であることを教えて仏意を知らしめる方便である。

 

三、秘妙方便、これは仏の大悟大覚体内の権であって仏意の秘密を開いて、方便の諸教をことごとく妙となす方便である。すなわち、方便とは秘妙と釈するのである。

 

大聖人様の御義口伝に『内衣裏の無価の珠を点ずるに王の頂上の唯一珠有ると二無く別無し、客作の人を指すに是長者の子にして亦二無く別無し、此の如きの言は是秘是妙なり』。(御書全集七一三ぺージ)

『又云く法界三千を秘妙とは云うなり秘とはきびしきなり三千羅列なり是より外に不思議之無し、大謗法の人たりと云うとも妙法蓮華経を受持し奉る所を妙法蓮華経方便品とは云うなり今末法に入って正しく日蓮等の類の事なり』(御書全集七一四ページ)

 

以上のごとく、三種類の方便で、妙法蓮華経方便品とは、秘妙方便をおさしになっているのであって、私どもが妙法蓮華経と読誦したてまつるときは、大聖人様の方便品と心に念じたてまつるのである。

すなわち、借文の義において大聖人様のご慈悲をこうむり、かかる凡夫の身が秘なり妙なり、即極の諸法実相の仏なりと思うとき、感謝に満ちて読誦を進めていくのである。

 

『爾時世尊。従三昧。安祥而起。告舎利弗』

 

これは、大聖人様この世にご出世あそばして、大聖人様の仏力と南無妙法蓮華経の法力とによって、われわれ凡夫を仏になさんがために、もったいなくも舎利弗よと、われわれにお呼びくださっているのである。

 

『諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。一切声聞。辟支仏。所不能知』

 

成仏用心抄(御書金集一〇五五ぺージ)に、大聖人様のたまわく、

『夫れ法華経第一方便品に云く「諸仏の智慧は甚深無量なり」云云、釈に云く「境淵無辺なる故に甚深と云い智水測り難き故に無量と云う」と、抑此の経釈の心は仏になる道は豈境智の二法にあらずや、されば境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり、而るに境の淵ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし、此の境智合しぬれば即身成仏するなり、法華以前の経は境智・各別にして而も権教方便なるが故に成仏せず・今法華経にして境智一如なる間・開示悟入の四仏知見をさとりて成仏するなり、此の内証に声聞・辟支仏更に及ばざるところを次下に一切声聞辟支仏所不能知と説かるるなり、此の境智の二法は何物ぞ但南無妙法蓮華経の五字なり』

 

このおおせをうけたまわってわかるように、諸仏の智慧とは南無妙法蓮華経である。甚深無量とは、縦には永遠にして常住無始無終の本体であって、横には法界いっさいの本源である。其智慧門とは信心の門であって、その信心の門は難解難入である。いっさいの声聞辟支仏級の知ることのできない南無妙法蓮華経の境である。

 

『所以者何。仏曾親近。百千万億。無数諸仏。尽行諸仏。無量道法。勇猛精進。名称普聞。成就甚深。未曾有法。随宜所説。意趣難解』

 

所破の意において読誦したてまつれば、あらゆる権仏・迹仏は、百千万億無数の諸仏にかつて親近し、ことごとく諸仏の無量の道法を行じて勇猛精進して、お名前はあまねく聞こえたり、その成就したもうところの法は甚深で、いまだかつてない法である。相手方の機根によって、説くところの仏の御意はなかなか解しがたいのである。なぜかならば、秘妙の方便に通じないがゆえである。しかし、かかる権仏・迹仏の未曾有の法は、未曾有とはいうけれども、妙法蓮華経の一法にたいすれば已曾有法(いぞうほう)であって、大聖人様の妙法蓮華経においては、感知しえない法である。

 

 借文によって、これを拝すれば、『仏』とは大聖人様である。『(かつ)て』とは、末法以前である。『百千万億無数の諸仏に親近し』とは、百千万の諸仏に本より迹を垂れたのである。

『尽くして諸仏の無量の道法を行じ』とは、あらゆる諸仏は南無妙法蓮華経の一法より仏となって、無量の道法を行ずることをえ、勇猛精進して名前があまねく聞こえるようになったのである。つまり、仏としての化他の行をなされたのである。『成就甚深未曾有法』とは、等覚一転妙覚未曾有法たる妙法蓮華経を知ることができたのであって、このゆえに、いっさいを妙法蓮華経なりと開会しているから、開会のできぬ衆生はことごとく『意趣難解』なのである。

 

『舎利弗。吾従成仏已来。種種因縁。種種譬喩。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著』

 

『吾従成仏已来』の『吾』を迹仏の境涯としてとれば、その成仏は歴劫修行であり、『吾』を大聖人様と拝したてまつれば、成仏は久遠元初であらせられる。これは所破、借文の義によって拝するのである。

 

前の文を借文の義によって心に念じたてまつれば、大聖人様久遠元初よりこのかた、あらゆる仏に迹をたれ、種々の因縁や種々の譬喩を用いられて、広く法をのベられて、衆生の諸著を離れしめたのである。すなわち、衆生を救われたのである。

 

『所以者何。如来方便。知見波羅蜜。皆已具足。舎利弗。如来知見。広大深遠。無量無礙。力。無所畏。禅定。解脱。三昧。深入無際。成就一切。未曾有法』

 

〔語訳〕

一、方便波羅蜜。波羅蜜とは到彼岸、度無極と訳す。すなわち、方便波羅蜜とは前の三方便明了にして、いっさいに通達する仏の境智。

 

二、知見波羅蜜。知見とは、三智五眼をもって諸法の事理性相等を徹見するをいうのである。

 

三、無礙。無礙智のことであって、仏の智慧の通達自在にしてなんらの障礙ないことをいう。

 

四、力。仏の有する十種の力をいうのであり、知是処非処力、業報力、定力、根力、欲力、性力、至処道力、宿命力、天眼力、漏尽力の十種である。

 

五、無所畏。仏のおそるるところなき力。

 

六、禅定。心を一所に定めて動かないこと。

 

七、解脱。煩悩のきずなを解き菩提の障りを脱するをいう。

 

八、三昧。一つの法門に心をあつめることであって、三昧には種々の三昧がある。

如来は方便の波羅蜜や知見の波羅蜜を、みなそなえている。舎利弗よ、如来の知見というのは、広大であり、深遠であり、無量である。

 

無礙智、十力、無所畏、禅定は深くかぎりなくはいって、いっさいの、いまだかつてあらざる法をば成就したのである。かつて、あらざる法といえども、大聖人様の法にたいしては、千里の相違があるのである。

 

『舎利弗。如来能種種分別。巧説諸法。言辞柔輭。悦可衆心。舎利弗。取要言之。無量無辺。未曾有法。仏悉成就』

 

舎利弗よ(末法の衆生よ)迹仏の境涯においての如来は種々に分別し巧みに法を説き、言辞は柔輭で多くの衆生の心をよろこばしめるというけれども、末法の仏が南無妙法蓮華経と唱えて、衆生をよろこばしめるのとくらべれば、百千万億倍の相違であり、われわれの題目を唱える功徳は、まことにありがたいものと感謝すべきものである。

 

『止舎利弗。不須復説。所以者何。仏所成就。第一希有。難解之法。唯仏与仏。乃能究尽』

 

舎利弗よ(末法の衆生よ)要を取ってこれをいえば、無量無辺いまだかつてない法によって、迹仏がことごとく成就したというが、末法本仏の示現なさったところの大御本尊にたいすれば、天地雲泥の差なる法であって、末法ご本仏の大御本尊様こそ、いっさいの衆生をお救いくださる法である。

 

『諸法実相。所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等』

 

諸無実相とは十如是のことである。迹門では、諸法実相十如是という。本門では、南無妙法蓮華経ということであると念じて読誦したてまつるべきである。

 

十如とは、一に宇宙の万象のすがたをあらわすとともに、また十界の依正のすがたともみえる。いま十界に約してその例を取ってこれを説明する。

 

諸法実相とは、ある人が十万円の金を拾ったとする。その瞬間に十如をことごとく具足するのである。そのときの、

 

如是相 よろこびと、おどろきのすがたである。

如是性 十万円拾ったときの身分、その人の持つ性分が、はっきりとあらわれているのである。

如是体 その人の性分と、その人のすがたに種々の体をなすのである。おどろいた体、よろこんだ体、当惑した体、人に見られはしないかとあたりを見まわそうとする体。

如是力 拾ったにせよ、その人には十万円を持っているという力を持っている。

如是作 拾った十万円を持っているその人の瞬間には、十万円をどうすべきかという働きを保っているのである。

如是因 拾ったというその瞬間に、十万円を拾うべき因がある。十万円拾ったというその瞬間が、未来になんらかの因となるのである。

如是縁 十万円拾った瞬間に、その十万円拾ったという事実に縁があったし、また内外の縁がともなっているのである。

如是果 十万円拾った燐間の心の状態が果である。

如是報 拾った十万円が即報である。

如是本末究竟等 十万円拾った瞬間の相性体力作因縁果報まで如是は変われども、究竟するところ、十万円拾ったという事実は、ぜんぶ等しいということである。

 

 

妙法蓮華経如来寿量品第十六

 

この題目を読誦したてまつるとき、大聖人様の寿量品と拝したてまつり、心に文底秘沈の大法をお聞かせいただくと心に念ずるのである。如来とは大聖人様、寿量とは大聖人様の功徳を詮量したてまつると感謝するのである。

 

『爾時仏告。諸菩薩及。一切大衆。諸善男子。汝等当信解。如来誠諦之語。復告大衆。汝等当信解。如来誠諦之語。又復告諸大衆。汝等当信解。如来誠諦之語。是時菩薩大衆。弥勒為首。合掌白仏言。世尊。唯願説之。我等当信受仏語。如是三白已。復言。唯願説之。我等当信受仏語。爾時世尊。知諸菩薩。三請不止。而告之言。汝等諦聴。如来秘密。神通之力』

 

仏とは日蓮大聖人様、もろもろの菩薩大衆および弥勒とは、われわれ末法の一切衆生のことである。

『汝等当に如来の誠諦の語を信解すべし』とは、大聖人様の深きお誡めで、誠諦の語とは南無妙法蓮華経のことである。

かくして、四度、題目を信受せんことを誡められているのである。

『唯願わくは之を説きたまえ、我等当に仏の語を信受すべし』との『我等』とは、末法いっさいの衆生である。われら衆生も、四度、南無妙法蓮華経を信じ受持したてまつるべしとお願いしたてまつるのである。しこうして、大聖人様は如来秘密神通之力とおおせいだしあそばすのは、すなわち、南無妙法蓮華経のことである。

 

諸法実相抄(御書全集一三五八ぺージ)にいわく、

『地涌の菩薩の中の上首唱導・上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏竝座の儀式を作り顕すベき人なし、是れ即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり、されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返って仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』

 

如来秘密とは、大聖人様が久遠元初より、秘密にせられてお持ちあそばした南無妙法蓮華経である。神通之力とは、大聖人様の神通力であって、われわれ凡夫を成仏させてくださるお力である。末法濁悪の大悪人、大愚人を仏になすほどの大神通力がどこにあろうか。しかも即身成仏、生死即涅槃、煩悩即菩提の大通力である。

 

『一切世間。天人及。阿修羅。皆謂今釈迦牟尼仏。出釈氏宮。去伽耶城。不遠坐於。道場得。阿褥多羅。三藐三菩提。然善男子。我実成仏已来。無量無辺。百千万億。那由佗劫』

 

〔語訳〕

一、阿耨多羅三藐三菩提

仏の無上の覚智理正真道をいう。阿耨多羅は無上または無答。三藐は正等または正徧。三菩提は正覚または正知または真道なり。すなわち仏の智慧、仏の覚道(かくどう)(なら)(たぐ)うベきものなく、よく無上の涅槃にいたり、また衆生をみちびいてこの涅槃にいたらしむるをいう。

 

インドの釈迦牟尼仏のいうのには、いっさいの世間天人及び阿修羅の階級は、釈迦が釈迦族の宮を出て、伽耶城を去る遠くない道場にすわって、仏智をえたと思うであろうが、じつは仏になってから無量無辺那由佗劫であるといっているが、我実成仏已来の文の底を拝したてまつれば、大聖人様ご本仏であらせられてよりこのかた、無量無辺那由佗劫、すなわち、久遠元初であるとおおせられているのである。

釈迦第一番の成道は五百塵点劫ここでは無量無辺那由佗劫、大聖人様の成仏は無始無終の宇宙とともにの成仏であらせられるのである。

 

『譬如五百千万億。那由佗。阿僧祇。三千大千世界。仮使有人。抹為微塵。過於東方。五百千万億。那由佗。阿僧祇国。乃下一塵。如是東行。尽是微塵。諸善男子。於意云何。是諸世界。可得思惟。校計知其。数不。弥勒菩薩等。倶白仏言。世尊是諸世界。無量無辺。非算数所知。亦非心力所。及一切声聞。辟支仏。以無漏智。不能思惟。知其限数。我等住。阿惟越致地。於是事中。亦所不達世尊。如是諸世界。無量無辺。爾時仏告。大菩薩衆。諸善男子。今当分明。宜語汝等。是諸世界。若著微塵。及不著者。尽以為塵。一塵一劫。我成仏已来。復過於此。百千万億。那由佗。阿僧祇劫』

 

五百塵点劫の内容を説かれた経文である。ただ経文のごとく拝すべきであるが、五百塵点劫は釈迦の分域で、この五百塵点劫を文底より拝すれば久遠元初である。

 

たとえば、五百千万億那由佗阿僧祇の三千大世界という国があって、かりに人があって、この三千大千世界を粉々にしてしまい、あたかもいまのウドン粉のようにしてしまい、東方五百千万億那由佗阿僧祇国をすぎて、一粒を落とし、またこのようにして東へ行き、このウドン粉のようにした粉をなくしてしまう。もろもろの善男子よ、どう思うか。このたくさんの世界は思惟したり計算したりして、そのかずがいくらあるかわかるかどうかというのにたいして、弥勒などの菩薩が仏にたいしていうのには、世尊よ、無量無辺で算数では知ることができないし、信力のおよぶところではありません。いっさいの声聞や辟支仏が煩悩のなくなった無漏の智慧をもってして思惟しても、そのかずのかぎりを知ることはできないし、自分たちが不退地に住する、こういう境涯におちついていても、また、そのかずを知るということに達することができない。

世尊よ、このたくさんの世界は無量無辺というよりほかにありません。そのときに仏が大菩薩衆につげていうのには、もろもろの善男子よ、いままさに分明になんじらに宣語すべし。このたくさんの世界の前の五百千万億那由佗阿僧祇三千大千世界を粉粉にして、五百千万億那由佗阿僧祇国を過ぎて落として行った、その国とその間の国を全部ひっくるめて、ウドン粉のようにしてしまう、その一粒を劫の単位とする。すなわち一粒を一劫とする。その全体の劫は偉大な劫になるが、その劫よりも百千万億那由佗昔に自分が仏になったのである。かくのごとく非常に長い劫を説いて、これを五百塵点劫という釈迦が仏になった過去をのべている。

 

『自従是来。我常在此。裟婆世界。説法教化。亦於余処。百千万億。那由佗。阿僧祇国。導利衆生。諸善男子。於是中間。我説燃燈仏等。又復言其。入於涅槃。如是皆以。方便分別。諸善男子。若有衆生。来至我所。我以仏眼。観其信等。諸根利鈍。随所応度。処処自説。名字不同。年紀大小。亦復現言。当入涅槃。又以種種方便。説微妙法。能令衆生。発歓喜心。諸善男子』

 

『自従是来。我常在此。娑婆世界。説法教化』とは、釈迦は五百塵点劫よりこの娑婆世界、すなわち勘忍の世界に常に住して説法教化をしていたというが、大聖人様はまだまだその以前たる無始無終の久遠元初より、南無妙法蓮華経のご本体として南無妙法蓮華経の本仏として勘忍すべき世界に住せられて、説法教化すなわち、活動を続けておいであそばされたのである。これ生命の永遠であることを説くのである。

すなわち、釈迦および釈迦の眷属の生命観は五百塵点劫であり、大聖人様の生命観は無始無終の生命観である。ゆえに、われら眷属の生命観も無始無終なのである。

(昭和二十六年十二月二十五日)

 

『亦於余処。百千万億。那由佗阿僧祇の国において衆生を導利した』とは、娑婆世界だけでなくて他の仏土においても同様であることをのべられているのである。

 

 また、もろもろの善男子よ、その中間において釈迦が然燈仏等とあらわれたことがある。すなわち釈迦についていうならば、第一番の成道いらい、種々なる仏とあらわれたということをいうのであるが、久遠元初の大聖人様は衆生化導のためにあらわれた釈迦とはことなって、その五百塵点劫第一番の釈迦に本より迹を垂れたのであるから、大聖人様が本仏としての本源なのである。

 

『又復言其。入於涅槃』とは、常住といえども、死ということがなくては、宇宙の秩序が立たないということをいわれているのである。これが、すなわち、『是の如きは皆方便を以て分別せしなり』とのことばにあたるのである。

 

 つぎは、釈迦が番々成道して衆生を利益せしめたありさまを説かれているのである。

 すなわち、衆生の感応を説くのであるが、これを文底の眼開いて、所用の立場からその感応の妙を説くならば、『若し衆生あって我が所に来至する』とは、末法の衆生、大御本尊様へおまいりすることである。

 

『我仏眼を以て』とは、『我』はまえに説いたように、大聖人様すなわち御本尊様である。仏眼とは御本尊様のご威光である。その衆生の信根・念根・精進根・慧根などの五根の利鈍によって、どうしたならば救うことができるかと、罰と利益によって衆生を導くのである。それが『随所応度。処処自説』ということである。

 

『名字の不同・年紀の大小』とは、生命論であって、ここでは仏の名前があらわれるたびにちがい、仏の化導の利益の効の大小をいっていられるが、われらの立場からいえば、幾千回と生まれてくるたびに、名前がちがい、境涯がちがうのが名字の不同であり、年紀の大小は生命の長短をあらわされているのである。

 

『亦復現言。当入涅槃』とは、生死の二法を確認するために、また強く説かれているのである。

 また、種々の方便をもって微妙の法を説いて衆生において歓喜の心を起こさせるとは、迹仏の境涯においては方便教をもっていっさいをよろこばせる意味ではあるが、御本尊様においては、種々の方便とは、まえにのベたように、利益と罰、あるいは死相等がそれである。

 

 これらによって微妙の法を説くとは、南無妙法蓮華経を説かれることである。

 歓喜の心とは、信心より起こり、いかなる迹仏・権仏をも示現できないところの大歓喜の心である。

 

 御本尊様を拝して、大歓喜なくんば、いまだ信心の奥底に達したとはいえないのである。