広宣流布と文化活動

 

 (三)

 以上、本門戒壇の建立は、日蓮門下の重大使命であることを論じた。しかし、重大使命であるとしても、もし本門戒壇が、現在の状態で建立されたとしたら、どんな結果になるであろうか。

 

 一般大衆は無信仰であり、無理解である。単に国家がこれを尊重するとするならば、現今の皇太神宮や、明治神宮のごとき扱いを受けるであろう。しからば、『かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし』(種種御振舞御書九一九ページ)とのご聖言のように、国に災難がおこるであろう。

 

 ゆえに、本門戒壇建立の大前提として、本尊流布が徹底的になされなければならぬ。日本全国の津々浦々まで、この御本尊が流布せられ、知識階級に深刻なる理解を持たせねばならぬ。

 

 敗戦日本のみじめさ、重なる生活苦、米ソ戦の脅威等々による、いまの全国民の苦難はいうまでもないことであるが、これ本尊流布の時がきていることを、十分に物語っているのである。

 

 されば、吾人の考うるところによれば、いま時に応じて、本尊流布は滔々として遂行されるものと信ずる。しかし、その間、大聖人の大難に比すベくもなき小難とはいえ、難は必ずありうるものと、覚悟しなければならない。

 

 最後の、戒壇の建立、すなわち三大秘法の本門の戒壇の建立は、本尊流布の遂行とともに、当然完成されることは、いうまでもないと信ずる。また、このことは、至難事中の至難事であることも、いうまでもない。

 

 そのゆえは、日本民衆に、信ずると信じないとにかかわらず、深刻なる理解を持たせねばならないからである。深刻なる理解は、言うはやすく、行なうは難いのである。本尊流布中には、いまみられるごとく、邪宗の輩の卑劣な反対があるが、今後それに倍増する、新たな反撃があることが、十分考えられる。したがって、理解をさせるなどという段階までいけるのは、最良の場合であると思われる。

 

 そこで、日本民衆に理解をさせるための、文化活動の必要が生じてくる。

 

 現在の日本人には、宗教上の知識がほとんどないといっても過言ではない。このことは、一応は大乗仏教国として、たしかに悲しむべき現象ではある。しかし、再応は、われら広宣流布に挺身する者には、まことに好都合のことである。なんとなれば、かれらは白紙か、または、迷信の者であるから、よく考うるならば、かれらに、真の理解を得させるのには、好都合であるかもしれぬからである。

 

 しからば、文化活動の内容はいかにというに、まず政界に、本門戒壇建立の必要性を、十分に理解させることである。しかして、この理解の成就は、一般大衆の支持からくることはもちろんである。一般大衆の支持をうけるためには、言論界の理解を根幹とすべきである。

 

 このことは、非常にめんどうである。なぜかならば、現代の言論界の人々は、宗教を理解せず、信仰どころか、まったくの無信仰といってもよかろう。しかし、もし広大無辺なるご仏智が本門戒壇の建立を、いまに許したもうならば、明治の高山樗牛のごとき人材が、現代に必ず出現するであろうことを、信ずるものである。実に、信なき言論は煙のごときものであるから、強信なる言論人を、多大に必要とするのである。これまた、至難事中の至難事である。

 

 もちろん、言論界と相提携して、新聞雑誌の協力も得なければならぬ。また、映画もその一役を買うベきであろう。ついで、経済人にも、本門戒壇を建立するこの信仰が、かれらに偉大なる利益を与えることを、理解させなければならぬ。

 

 資本家も、労働階級も、企業家も、これを理解し、これを信仰するときに、

 

 如説修行抄(御書全集五〇二ページ)の

『天下万民・諸乗一仏乗と成って妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壌を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ』云云

の世の中が、現出すると信ずるものである。

(昭和三十一年五月一日)