忍辱の鎧を著よ
創価学会が、折伏の大行進をなしている所以は、日本民族の救済にある。
現時の日本民衆には、依怙依託となる物がない。昔は、心細いことではあるけれど、天皇とその軍隊とがあった。今はそれすらなく、物価の騰貴と、いつ大戦争に巻きこまれるかという危惧におちいっているみじめさである。
だれ人が何ものをもって、慰安と希望を、日本民衆にいだかせんとするか。いずこを見わたしても、何ものもないではないか。されば、ここにおいて、わが創価学会は、御本仏日蓮大聖人の広大なる偉力を、各自に自得させて、生き生きとしたる新生日本民族を造らんとするものである。
その実践活動として、生命力の源泉たる大御本尊様を、かれらにすすめて、受持させるのである。すなわち、日本民衆に本尊流布をなすのであって、これが完遂された時こそ、日本民族は希望と歓喜に満ちわたるのである。
この行為は、遠くは釈尊の慈悲、近くは日蓮大聖人の大慈悲に、学んだものである。
このゆえに、折伏は慈悲の行為であり、法施なのである。その人を尋ぬれば仏の使いであり、仏よりつかわされたる人であり、仏の事を行なう者である。その位置を考うれば、秀吉、ナポレオン、アレキサンダー等より幾十億倍すぐれる。普賢、文殊、弥勒等は、遠くよりこれを拝し、梵天帝釈等も、来たり仕うるのである。かかる尊き身をかち得て、折伏を行ずる、われわれの喜びは、何ものにも、たとえようもないものであるべきだ。
しかるに、この行事たるや、難事中の難事なのである。ゆえに、法華経にも、このことをたとえていうのには、須弥山を、足のつま先で投げとばすことよりも、また、枯れ草を背にして、大火のなかにはいって、焼けないことよりも、この折伏を行ずることは、なお至難であると説かれている。なぜかならば、今日、末法の世は、五濁悪世とも、三毒強盛の世ともいわれて、すなおに仏意を信ずる者は、皆無の時代だからである。自我偈にも、顚倒の衆生といって、良き宗教を悪しと思い、悪き宗教を良しと思う者ばかりの世であるからである。
われらが、情けをもって折伏するといえども、即座にこれを聞く者は、皆無と思うべきである。反対する、悪口罵詈する。あるときはちょうちゃくにもあうのであって、水におぼれている者が、救わんとする人の手に、かみつくようなものである。無智にして貧欲、傲慢、いいようのなき衆生を相手にして折伏するのであるから、その至難さはいうばかりない。
さて、はじめは情けをもって折伏するも、前記のような衆生であるがゆえに、凡夫のわれらは、ときによって、自己の尊貴な位置も、崇高なる使命も忘れて、かれらと同等の位置におちいり、口論けんかとなるときもある。
かかることは、おのれを汚し、大聖人にそむき、釈迦仏教界の菩薩級にも、あざ笑われる仕儀にもなるのである。
吾人は言う。折伏に当たっては、忍辱の鎧を著よと。無智の者より、悪口罵詈せられたならば、われ忍辱の鎧を著れり、と心に叫んで、慈悲の剣を振うことを忘れてはならぬ。
(昭和二十九年五月一日)

