「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、
武田信義の銅像の紹介です。
武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」史跡めぐりの旅
は少しお休みです。
youtubeはじめました。
甲冑を着て日本刀で食材をさばき食べます。
チャンネル登録よろしくお願いします。
人物名 | 銅像設置場所 | 住所 |
---|---|---|
武田信義 | 韮崎市役所 | 山梨県韮崎市水神1丁目3−1 |
駐車場があります。
甲斐武田氏を継ぎ武田氏の祖となった武田信義
武田信義は源清光の次男です。
甲斐周辺に勢力を誇った源氏のうち、逸見氏を兄・光長が継ぎ、武田氏は次男の信義が継ぐこととなります。
武田氏とともに名家の逸見氏でしたが、以降あまり活躍しておらず、結果的には武田氏を継いだ信義が甲斐の武士団を配下としました。
源頼朝とともに平家と戦うも、のちに疎まれ失脚した武田信義
以仁王(もちひとのおう)の令旨(りょうじ)により挙兵した信義は甲斐の兵を率い平家と戦い、富士川の合戦で勝利すると源頼朝から駿河守護に任じられています(吾妻鏡)。
以降も源頼朝とともに平家と戦い、一ノ谷の戦い、壇ノ浦の戦いなどにの大戦にも参加しています。
しかし、源氏の中でも実力のある信義は次第に源頼朝に疎まれる存在となってしまいます。
実の弟・義経でさえ疎んだ頼朝ですからね、源氏の長として有力者を排除し、実力を掌握したかったのでしょう。
そのため、信義の嫡男・一条忠頼は暗殺され、三男・板垣兼信は配流、弟・安田義定も死に追いやられています。
源氏の系統で頼朝や木曽義仲と肩を並べる実力者であった信義ですが、結局は鎌倉政権下で御家人の地位に落ちてしまいました。
武田家は五男の信光が継ぎ、以降続いて行きます。
武将の銅像 TOPページへ戻る
日本全国の武将の銅像を紹介しています。
※返信までに時間を要する場合、お答えできかねる場合もございます。ご了承ください。
youtube はじめました。
甲冑を着て日本刀で食材をさばき食べます。
チャンネル登録よろしくお願いします。
ラインスタンプ作りました。
喜怒哀楽を兜の前立てで表現した可愛い「武将の日々と日常なサムライスタンプ」、
かわいい「たぬきサムライのスタンプ」などなど。
気に入ったら使ってくださいね。よろしくお願いします。
スタンプはこちらから。
ブログランキングへ参加中です。ご協力お願いしますm(_ _ )m
このブログの記事や画像の無断使用、転載は絶対やめてくださいね。ご使用等に関してはこちら までお願いします。
この記事作るのにいろんな史料を調べたり、現地に行って写真撮ったり、時間・お金がたくさんかかってます!ズルしちゃだめですよ。
© 2010-2021 siro-sengoku-bushou.