「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」お城めぐりの旅、会津若松城その1の紹介です。
5月下旬に親父のふるさと会津に行ってきましたので、僕の第二のふるさと、会津のことを少し紹介しますね。
僕が執筆した城びと記事「会津若松城の見どころ5選」 もご覧ください。
城名(別名) | 住所 | 関連する人物 |
---|---|---|
会津若松城(鶴ヶ城、若松城、黒川城) | 福島県会津若松市追手町1−1 | 蘆名氏、伊達政宗、蒲生氏郷、蒲生秀行、蒲生忠郷、上杉景勝、加藤嘉明、加藤明成、保科正之、松平容保、白虎隊、新島八重 |
周辺に有料駐車場があります。
100名城スタンプは鶴ヶ城天守内、売店の入口にあります。
綺羅星の如き戦国の勇士たちが居した会津若松城
会津若松城はかつては黒川城とよばれ、奥羽の雄・蘆名氏の居城でした。
伊達政宗の入城
天正17年(1589年)、伊達政宗は摺上原で葦名軍を破って滅亡へと導き、6月11日、黒川城へ入城します。
しかし、翌天正18年(1590年)、小田原征伐後の豊臣秀吉の奥州仕置により、会津の地は召し上げられ政宗は岩手山へ転封となってしまいます。
蒲生氏郷の入城
天正18年(1590年)、織田信長の娘婿の蒲生氏郷 が入封します。
氏郷は城を大改修し、城下町と七層(五層七階の説有)の天守閣を造り、名を鶴ヶ城と改めました。
氏郷の死後、子の秀行が跡を継ぎますが、慶長3年(1598年)、宇都宮へ転封となります。
上杉景勝の入城
慶長3年(1598年)、上杉景勝が入封します。
景勝の領地は会津を含め120万石となりました。
関ヶ原の戦いの翌慶長6年(1601年)、景勝は米沢に転封となります。
蒲生秀行の再入城
蒲生秀行 は徳川家康の娘を妻とし、関ヶ原では東軍に属していたので、戦後加増され、慶長6年(1601年)、再び会津へ入封します。
秀行が亡くなると子の忠郷 が跡を継ぎますが、忠郷も早世したため、弟忠知 が継ぎ伊予松山へ転封となりました。
加藤嘉明の入城
寛永4年(1627年)、豊臣秀吉子飼いの武将で賤ヶ岳7本槍の一人である加藤嘉明が入封します。
嘉明は検地や街道の整備などを行いました。
嘉明の死後、子の明成の代に城は大改修されます。
北出丸と西出丸を増築した上、北出丸を大手口とし、地震で傾いていた天主閣を五層に改修しました。
保科正之の入城
寛永20年(1643年)、徳川家康の孫・保科正之が入封します。
正之は家訓十五条を定めると同時に、徳川家に対する忠義を家臣に示しました。
その教えは幕末まで受け継がれ、白虎隊をはじめとした会津戦争の悲劇が起こります。
落城じゃないよ、開城だよ、鶴ヶ城
会津では、会津若松城より鶴ヶ城のほうが馴染み深いですかね。
僕も小さなころから鶴ヶ城と呼んでました。
さて、鶴ヶ城ですが、幕末から明治にかけての会津戦争の際、実は落城していないんです。
籠城する事一か月、新政府軍は城を落とせず、鶴ヶ城自ら開城しています。
新政府軍のへなちょこ攻撃に耐えたんですよね。すばらしいです
新政府軍は城への猛攻を掛けますが、北出丸(大手口)から先へは進めず、遠巻きに砲撃を放つのみでした。
そんな名城・鶴ヶ城ですが、明治7年(1874年)、天主閣を始めすべての建物は解体されてしまいます。
その後、昭和9年(1934年)に国の史跡に指定され、昭和40年(1965年)には天守閣が再建されました。
コンクリ一ト製ですが、外観はほぼ当時のままの姿での復元です。
平成13年(2001年)には干飯櫓と南走長屋が再建されました。
その2へ続く 。
会津若松城のご城印はこちら。
筆者執筆の城びと記事
「会津若松城の見どころ5選」はこちら
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