戦乱の旅-甲州征伐 | 各史料に記された、武田家の成敗された一族、家臣たち | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

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武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」
織田軍によって成敗された一族家臣たち面々の紹介です。


各史料に記された武田の一族・家臣たちの最期
勝頼とともに最後まで戦った臣以外の一族・家臣たちの最期は「甲乱記」「甲陽軍鑑」に詳しく記されています。
以下、要約抜粋します。

「甲乱記」

武田の一族 家僕の面々生害の事

先づ逍遙軒信綱は、甲州鮎川原にて討たれ、

一条上野介信龍 は同州市川(上野城) にて討たれ、

葛山十郎信貞幷に小山田出羽守信茂は、善光寺にて刺殺され、

今井肥前守、子息総一郎、岩手右衛門尉は、甲州南山にて誅せられ、

今井左近大夫、山縣三郎右衛門尉は、郡内に於て討たれ、

加藤丹後守父子三人、小山田掃部助、同佐渡守は、武州に於て討たれ、

今福築前守は、高遠 にて誅せられ、

大熊備前守、朝比奈兵衛大夫、諏訪越中、同伊豆守は諏訪に於て討たれ、

日向大和入道 、同子息次郎三郎は、其身の在所村山に於て自殺す。

朝比奈駿河入道は、駿州蒲原にて討たれ、

今福丹波守·同息善十郎は、同州村松にて自殺す。

同刑部右衛門は、甲州小尾の府に於て討たれ、

甲州古府中に於て生害の衆、
曾根河内、老父上野入道、同子息掃部助、釣閑斉 、同子息長坂筑後守、左衛門大夫長延寺、
跡部越中守、秋山摂津守、同老父萬可斉、市川十郎右衛門、

斯くの如く在々所々に於て、鵜鷹の餌を打つ様に、討殺さる。

「甲陽軍鑑」

(信長は)春より計策を廻らした。

二月末、三月始め時分に、信長父子は(武田方に)褒美に甲州一国や信濃半国、駿河をくれてやるとの書状をよこした。

それを誠に思い、(武田家滅亡後)勝頼公御親類衆をはじめ、みなお礼に参上したところ、

跡部大炊助 は諏訪にて殺さるる。

逍遥軒は府中立石にて殺さるる。

小山田兵衛(信茂)、武田左衛門、小山田八左衛門、小菅五郎兵衛は甲府善光寺にて殺さるる。

一条(信龍)殿は甲州市川にて家康の命にて殺さるる。

秋山内記は高遠にて殺さるる。

長坂長閑父子は一条殿御舘にて殺さるる。

仁科殿小山田備中渡辺金太夫 、この三人は高遠の城において織田城ノ介(信忠)旗本に攻められ上下十八人にて城を守り晴れて討死なり。

高坂源五郎は勝頼の陣に駆け付けたものの、長坂長閑の考えで参陣叶わず信州に出たが川中島で殺されるる。

山縣源四郎も殺さるる。

駿河先方衆も勝頼公の御ためと一筋に存じたものはころさるる。

甲信駿河の侍大将、家老衆いづれも殺さるる。

ただし、信濃の真田、芦田、上野の小幡、和田、内藤、その他上州衆はみな助け、滝川与力に付けた。



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