戦乱の旅-甲州征伐 | 武田家滅亡後、戦後の織田信長、信忠親子の動向! | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」、
武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」
戦後の織田信長、信忠親子の動向の紹介です。


織田信長、後から甲斐へ余裕の入国
織田信長は対武田の甲州征伐の指揮を嫡子・信忠に任せ、後から難なく甲斐へ入国しています。
その同行は「信長公記」に詳しいので、嫡子・信忠の動向と合わせて以下要約抜粋。

ちなみに、武田勝頼親子が田野の地で玉砕し滅亡したのは、3月11日です。

※記事は色文字を使っています。スマホで表示されない場合、一度前の記事に戻ってもらい再度次の記事を読むと表示されるようです。
織田信長の動向

3月5日、
信長、隣国の軍勢を連れ(安土より)出陣。
近江の柏原上菩提院に宿泊。


3月6日、
仁科五郎(盛信) の頸が届く。
呂久(ろく)の渡しにて検分し、岐阜へ運ばせ長良の河原 に晒した。


3月7日、
雨が降り、岐阜に逗留。


3月8日、
岐阜より犬山まで進軍。


3月9日、
金山泊。


3月10日、
高野に陣。


3月11日、
岩村 に着陣。


3月13日、
岩村から禰羽根(ねばね)に陣を移す。


3月14日、
平谷を越え、浪合に陣。
勝頼親子 の頸を関可平次、桑原介六が持参。
信長は検分し、矢部善七郎に命じ飯田へと運ばせた。


3月15日、
午の刻より雨が強く降る。
この日は飯田に陣を張り、勝頼親子の頸は飯田で晒した。


3月16日、
飯田に逗留
この間、典厩(武田信豊) の頸が届く。
仁科五郎(盛信)の秘蔵の蘆毛の馬、武田四郎(勝頼)の大鹿毛が献上され、大鹿毛は三位中将信忠につかわした。
武田四郎勝頼が最期に差していた刀は滝川左近より信長公へと献上された。

武田四郎(勝頼)、同太郎(信勝)、武田典厩(信豊)、仁科五郎(盛信)4人の首は、長谷川宗仁に命じ、京で掛け晒すよう命じた。


3月17日、
飯田から大島を経て、飯島に陣を敷く。


3月18日、
高遠城 へと進む。


3月19日、
諏訪法花寺(法華寺 )に陣。
諸将の陣取りに指示を出す。
備えた武将は、織田七兵衛信澄、菅屋九右衛門(長頼)、矢部善七郎(家定)、堀久太郎(秀政)、長谷川竹、福富平左衛門、氏家源六、竹中久作(重隆)、原彦次郎、武藤助、蒲生忠三郎(氏郷)、永岡与一郎(細川忠興)、池田勝九郎、蜂谷兵庫頭(頼隆)、阿閉淡路守、不破彦三、高山右近 、中川瀬兵衛(清秀)、惟任日向守(明智光秀)、惟住五郎左衛門(丹羽長秀) 、筒井順慶。


3月20日、
木曽義政(義昌) が出仕。
馬二頭を献上した。
申し次は菅谷九右衛門、取次は滝川左近(一益)。
信長は刀と黄金100枚、新しく信濃二郡の知行を与えた。
刀は、梨地蒔絵、金具所は焼付け、地彫り、目貫、笄は十二神の後藤源四郎の作。

(帰りは)縁まで信長自ら見送った。
光栄なことであった。

3月20日晩、
穴山梅雪 が挨拶に参上。
馬を献上した。
信長は、脇差と小刀に鞘袋、火打ち袋を与えた。
脇差は、梨地蒔絵、金具所焼付け、地彫り。
小刀は、柄まで梨地蒔絵。
信長は「似合い申す」と言葉をかけ、本領を安堵した。

松尾掃部大輔(小笠原信嶺)も挨拶に参上。
較(ぶち)の馬を献上。
馬は信長の意にかない、秘蔵とした。
「今度忠節比類なきの旨」と言い、本領安堵の朱印状を、矢部善七郎、森乱を使者としてつかわした。
ありがたいことであった。


3月21日、
北条氏政より、端山(はやま)という者が使者に来て、馬ならびに江川の酒、白鳥などいろいろ献上した。
取り次ぎは滝川左近(一益)。


3月23日、
信長は滝川左近(一益)を召し寄せ、上野国および信濃二郡を与えた。
信長秘蔵のゑびか毛の馬をつかわし、「この馬にて入国するよう」申し付けた。
滝川左近は、面目をほどこした。


3月24日、
長期在陣し兵糧に困っているだろう、と菅屋九右衛門(長頼)を奉行に任じ、諸兵の人数に応じて信濃の深志で扶持米を配った。
ありがたいことであった。


3月26日、
北条氏政が馬の飼料として米千俵を、諏訪まで運び、献上した。

信長、三位中将信忠に、高遠の名城を攻め落とした手柄の褒美として梨地蒔絵の刀を贈った。
とともに、「天下の儀の与奪」を伝える。


3月29日、
信長、武田領を家臣に分け与える。
諸将は木曾口、伊那口のから思い思いに帰陣した。


4月2日、
信濃の諏訪に信忠を駐留させ、信長帰京す。


織田信忠の動向

3月7日、
信忠、上諏訪より甲府に入国。
一条蔵人の屋敷に陣を敷く。

武田四郎勝頼の一門、親類、家老の者を探索させ、ことごとく成敗。
成敗したのは、一条右衛門大輔(信龍) 、清野美作守、朝比奈摂津守、諏訪越中守、武田上総介、今福筑前守、小山田出羽守、正用軒(逍遥軒)、山県三郎兵衛の子、隆宝(竜宝)。

駿河、甲斐、信濃、上野4ヵ国の諸将、縁を頼って、帰参の挨拶に訪れ、信忠の陣の門前は市のように賑わった。


(3月11日、)
武田勝頼父子の首は、滝川左近(一益)から信忠のもとへと届けられる。
これを関可平次、桑原介六の両名に持たせ、信長のもとへと送られた。

3月25日、
上野国の小幡(信真)が甲府へ参り、信忠に帰順の挨拶をした。
信忠、小幡に帰国の許可を与え、滝川左近(一益)は小幡に同道して、上野へ出立。


3月26日、
信長、三位中将信忠に、高遠の名城を攻め落とした手柄の褒美として梨地蒔絵の刀を贈った。
とともに、「天下の儀の与奪」を伝える。


3月28日、
信忠、信長に礼を述べるため甲府より諏訪に罷り越す。
この日は豪雨、風があり、寒かった。
多くの人が凍死した。


4月3日、
恵林寺焼き討ち


甲州征伐編、まだ少し続きますビックリマーク

武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」へ戻る


アメブロ以外の方のご意見・ご質問等はこちら まで。
※返信までに時間を要する場合、お答えできかねる場合もございます。ご了承ください。

ライン宣伝07 ラインスタンプ作りました。
喜怒哀楽を兜の前立てで表現した可愛い「武将の日々と日常なサムライスタンプ」
かわいい「たぬきサムライのスタンプ」などなど。
気に入ったら使ってくださいね。よろしくお願いします。
スタンプはこちらから。

ブログランキングへ参加中です。ご協力お願いしますm(_ _ )m
パクリはやめましょう!
このブログの記事や画像の無断使用、転載は絶対やめてくださいね。まとめサイトとかもダメです!neverなんて論外です!
この記事作るのにいろんな史料を調べたり、現地に行って写真撮ったり、時間・お金がたくさんかかってます!ズルしちゃだめですよ。
© 2010-2020 siro-sengoku-bushou.