戦乱の旅-甲州征伐 | 徳川家康の動向!家康、穴山梅雪の寝返りにより難なく侵攻! | 地図付 | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)
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武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」
徳川家康の動向を紹介します。

徳川家康、市川口より甲州へ乱入す
織田信長の下知のもと、徳川家康は駿河方面から甲州へと乱入します。
武田勝頼が頼みとしていた江尻城主・穴山梅雪が裏切ったたことにより、身延方面市川口からの乱入は容易くなり 、戦いはあったものの、さしたる被害を蒙ることなく甲州入りを果たしています。
以下、各史料による徳川軍の動向です。
穴山梅雪の行動のみ赤字で記します。

「信長公記」

徳川家康は、穴山梅雪を案内役に、駿河から富士川沿いに進んで甲斐の国へと乱入。
文殊堂の麓、市川へ進撃した。

「甲陽軍鑑」

2月6日、
酒井左衛門尉(忠次)、家康に注進。木曽義昌が信長に降る。これを機に信長は甲州に攻め込むと。

2月12日、
織田信忠、岐阜より出陣。

2月16日、
武田の兵、遠江小山城を開城し、甲府へ撤退。

2月18日、
家康、掛川に着陣。

2月19日、
諏訪原の諸兵、金谷に陣す。

2月20日、
田中城主・芦田下野(依田信蕃か?)、降伏し甲府へ撤退。

2月21日、
家康、駿府に至る。

2月27日、
用宗城(持舟城)主・朝比奈駿河守、和を請う。

2月29日、
家康、用宗城に入る。朝比奈は甲府へ撤退。

3月1日、
穴山梅雪、家康の旗下に属す。

3月4日、
穴山梅雪、家康に謁見。太刀、鷹、馬を献上す。

3月5日、
酒井左衛門尉、蒲原へ着陣。
織田信長、安土を出立。

3月6日、
織田信忠、甲府に乱入。

3月8日、
家康、興津に陣す。

3月9日、
万座まで進軍。

3月10日、
家康、市川に至る。

3月11日、
家康と穴山梅雪、甲府にて信忠に謁見。

「三河後風土記」

織田信長より、三河遠江勢3万駿河口より甲州へ乱入せよとの下知あり。

2月6日晩、
酒井忠次より使い。正月中より木曽と武田が一触即発状態なので、急ぎご出馬ください。

2月16日
遠江を守る武田勢の大熊備前、室賀、小泉等、徳川勢を恐れて徳川勢の旗を見ずに退散

2月18日、
家康、浜松を出立。掛川まで移動。

2月19日
牧野城(諏訪原城)へ着陣。
先鋒はさらに先の金谷嶋田へ陣取る。

2月20日
田中城攻め。徳川先鋒は大須賀、榊原、酒井、本多。城を攻め城兵10余名討ち取ったものの、依田右衛門信蕃、三枝土佐虎昌(虎吉か?)等、城を堅固に守りいまだ落城せず。
一条右衛門大夫信龍は勝頼の身の上心許なしとて甲州へ撤退す。

2月21日、
徳川勢は遠目坂を越えて持舟に陣を張る。

2月22日、
持舟城より朝比奈駿河政貞家臣・奥向日向に数百人をそえて遠目坂を超えて攻め寄せて来る。
徳川先鋒、石川数正、酒井忠次、本多忠勝、大須賀康高、榊原康政、これを迎え戦う。
乱闘の末、武田軍敗走。
鞠子を守る室賀兵部も徳川勢が来るより先に甲州へ撤退。

2月23日、
徳川勢は勢いのまま持舟城へ押し寄せ、城将・朝比奈駿河守は河防戦かなわず降伏。久能山へと撤退。
久能山は今福丹後昌和が守るがこれも砦を捨て甲州へ退散。
これを聞いた本多八〇秀玄、山中で今福を討ち取る。
残兵はみな烏合の衆なればちりじりに逃げ失せる。
田中城の守将・依田、三枝は義を守り降参せず。

2月25日、
家康、長坂血鎗九郎信政を江尻城に使わす。
穴山梅雪寝返り。

2月27日、
穴山梅雪、江尻城を撤退し自領の下山へ退く。

3月1日、
田中城未だ落城せず。
城将・依田、三枝両人の義心に感じ成瀬吉右衛門、諸岡山城、城へ使いとして出向く。
信長は甲州の犬猫までも成敗するので、両人は早く城を出て徳川領内の山林に身を隠し時節を待つべし。あたら義勇の士が犬死するのは忍びないと諭す。
両名は勝頼の存亡も分からない今、降参は出来ないと再三言うが遂に諭され、依田は信州蘆田へ、三枝は伊勢の方へ落ち延びる。

3月2日、
興国寺の守将曾根下野政清は城を明け渡し味方になる。
駿府の守将・武田(一条)上野介信龍、武田左衛門大夫信光(信就か?)は城を捨て甲州へ撤退。

3月4日、
蒲原の家康の陣に穴山梅雪参陣。太刀と馬、鷹を献上する。

3月5日、
酒井忠次等三河遠江の兵ことごとく蒲原へ到着。

3月7日、
興津まで進軍。

3月8日、
酒井忠次、石川数正、本多忠勝、大須賀康高、榊原康政等、駿河井出の郷より河内をへて甲州西郡万座へ至る。
地理不案内の所、井出の郷人斎藤寧彌右衛門が道案内をかってでる。

3月9日、
旗本、万座へ進む。
先鋒は富士の麓を急ぐ。
これより穴山梅雪が案内。
先鋒は身延の麓八代郡文殊堂市川口より甲斐へ乱入。
この時、武田勝頼が新府城を人質もろとも焼き捨て、古府中(躑躅ヶ崎)方面へ撤退したとの報が入る。
成瀬吉右衛門正一をはじめ武川衆がお味方にと願いでる。

3月11日、
信忠、7日に諏訪から古府へ着陣。一条氏の屋敷を本陣とす。
家康、穴山梅雪を連れ信忠に謁見。



…以上の史料をもとに図にしてみました。

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徳川軍と織田軍の行軍ルート。


…地理的に見ても、やはり江尻城の穴山梅雪が寝返ったのはイタイですよね。
武田勝頼にとってはここが重要ポイントだった訳で、信頼のおける親族の穴山梅雪に任せていたんですけどね。
見事に裏切られちゃいましたね。
これにより徳川軍は難なく甲州へと乱入します。

さて、徳川軍の怒涛の進撃の前に立ちはだかるのは、市川口を守る上野城の一条信龍
もはや孤立無援の状態ですけど、この人は勝頼が信頼する一人です。
父・信玄の異母弟で武田二十四将の一人でもあります。
はたして武田の意地を見せてくれるでしょうかはてなマーク


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