鏡の法則についていくつか記事を書きました。
鏡や投影では、
間違いを指摘された時、
その人に対して”なんて意地悪で性格が悪い人だ!”と、
思った場合を例として使いました。
意地悪で性格が悪い人というのは事実かどうかは分からず、
それを思った人自身が、
間違いを指摘する時に、意地悪い気持ちで行ない、
性格が悪い行動だと思っている、
ということを書きました。
自分自身に感じていることを、
他者に投影している訳です。
法則性のあるもの、規則や、万人に共通するもの、
誰でも同じ答えを出すもの以外の、
人それぞれ違う答えを持つ、解釈を持つものに対して、
自分の見たい様に、都合のよい様に捉えていることを知りましょう、
といった内容を書きました。
この自分はどう感じているのかとか、
考えているのかといったことを知るには、
これを繰り返すと、
外側の状況や人に対して感じることは、
今の自分の気分や考えなんかに影響されているな、
ということが分かると思います。
あの人は悪い人だと思っていても、
優しくされたらそれが和らぐとか、
普段は怒らないことなのに、焦りや不安があると、
つい怒ってしまったりとか。
事実がどうであるかより、
自分がどう感じているか、どんな考えがあるか、
自分の状況がどうなのかによって、
左右されるものなのです。
これをまず自覚すること。
そして、自分がそうであるように、
他者もまた同じであることを、認めるのです。
そうすると、他者の言動にも振り回されなくなります。
相手は、
自分の見たい様に、都合のよい様に捉えているだけなのだ。
例えば、誰かの考え方を変えようと説得しても、
本人がそれを受け入れたくない理由があるから、
無駄な事である。
また、誰かの気持ちを変えようとしても、
本人が味わいたい気持ちを選んでいるのだから、
無駄な事である。
鏡を確認してみるでは、
自分の足を引っ張り、問題を起こす、
ネガティブな感情を引き起こすものと対峙する為、
自分が普段から目を背けて、避けているものを見つける為、
嫌いな人に対しての悪口を思いつくまま、
書いていく方法をご紹介しました。
嫌いな人というのは、
自分が避けたい人という事になります。
避けたいのは、自分が見たくない、認めなくない何かが、
その人に投影されているからです。
だからもし、
今までとは違う人生を歩こうと思うなら、
自分が見たくないと感じているものの正体を、
見極める必要が出てきます。
それから逃げていれば、
これからも同じ人生を続けていくしかないでしょう。
勿論、それも自由であって、一つの選択です。
これは誰かに無理矢理やらされることではなく、
ノリでなんとなく試してみることではなく、
自分の意志で選んで、覚悟を決めて歩いていくことです。
人の内面、魂や心というものは、
目には見えない霊的なものであって、
物質的に確認することが出来ません。
それを知る為には、
投影している、鏡である、という仕組みを使って、
自分で見つけていかなくてはいけないのです。
本当の姿が分かるのは自分しかいません。
その姿を誰かに言って回る必要はないのです。
ないのだけど、
鏡を理解した人から見ると、
その人の言動を見れば内面がどうであるかは、
推測できるものになります。
何もないものを透視する、
という意味ではなくて、
その人の言動から分かるものがある、
ということです。
この仕組みを本当に理解した時に、
全てがひっくり返るという経験をします。
バラバラだったパズルのピースが、
全てピタっと収まるような感覚、
頭の中がすっきりクリアになって、
沢山のものが見えてきます。
それと同時に、
ちょっと立ち直れないと思うほどの、
酷い落ち込みも来ます。
今まで出会った全ての人に対して、
本当に申し訳ございませんでしたと、
謝って回りたい、
自分はとんでもない間違いを重ねてきた、
ということも分かります。
ものすごく苦しい気持ちと、
そうか分かったという大きな喜び、
同時に味わうのです。
そしてこれがやっと、
スタートラインに立った状態です。
もうこの鏡の法則が分かってしまうと、
誰かや何かのせいにして生きることは出来ません。
逃げ道はありません。
全ての原因は自分にあり、
全て自分で創ってきていて、
これからの未来も自分次第である。
そのことが本当に分るのです。
とても怖いことです。
怖いのに、力が内から満ち溢れてきます。
やっと本当の自分になり、
自分の人生を歩むことが出来るのです。
これは私の経験からの考えですので、
参考にならない人もいるかもしれません。
でもこの鏡であるということを、
基本中の基本として、
私は様々なことをお伝えして来ましたし、
今後こちらにも書いていくでしょう。
霊的な学びや成長というのは、
確実に一段ずつ積み上げていくもので、
その土台がしっかりしていなければ、
簡単に何かのきっかけで崩れ去ってしまいます。
飛び級はないのです。
この一番最初の土台が、鏡の法則の理解であると、
私は考えています。
もしこれを理解しないまま、次に進んでも、
何かのきっかけで躓くだろうし、
簡単に崩れ去るだろうし、
矛盾が生じて行き詰まるでしょう。
だけど、無意味ってことはないですよね。
例えば色別に順番が決まっている積み木を、
積み上げているとして、
一番下の積み木を積まずに重ねていたら、
何時の日か崩れてやり直すことになりますが、
その上の積み木の順番が合っているなら、
もう一度積み直す時は、最初より早く要領よく出来ますよね。
結局遠回りになる、やり直しになることになりますが、
鏡と向き合いたくないなら、それでもよいのでは?と思います。
けれども私とは違う道を歩いているようですので、
もうこれ以上お伝えする事はありませんよ?
テーマについてで書きましたけど、
私なりに分かりやすい様に、
努力して書きますので、
こちらを読んでみて、分かりにくいのか、
まず鏡の法則の理解が、私がお伝えしていくことの、
理解する気がないのか、
そもそも私の文を選ぶこと自体が合ってないのか、
よくよく見極めて下さい。
理解する気がないのか、
理解出来ないのかの違いは分かっていますか?
どちらにしても、別の誰かを探す必要があるでしょう。
読むか読まないかの選択肢がある中で、
”読む”を自主的に選択し、
でも自分から学ぶことを放棄して、
口を開けて食べさせて貰おうとする、
赤ちゃん状態の人には、
何もお伝えすることはありません。
元々焦っていないし、
自分のペースでやるから、
鏡の仕組みなんて知りたくない、
そんなの知る必要はないから!と言うのなら、
それがあなたの答えでしょう?
私がお伝えすることがあなたには何の必要もない、
ということなんですよね。
ここを読みに来るのはやめたらどうでしょう?
何故やめられないのですか?
自分が学ぶ気はないけれども、
ネタだけは拾いたい、
そんな気持ちでしょうか。
盗人猛猛しいといったことわざもありますが、
本当にそのままでいいのでしょうか?
分かりやすくとはどの程度のことでしょうか。
そのものですね。
私たちの暮らす地球さんについて、
様々な事が言われていますが、
地球さんというのは、宇宙の宝であって、
実験の星であるとも言われています。
実験というのも色々な理由があるかと思いますが、
私が考える理由の一つはまず、
赤ちゃんからお年寄りまで様々な霊的な段階の人々が、
混在しているということです。
二つ目は天国側の人と魔界側の人両方存在している、
ということです。
勿論これは例えです。
地表上に住んでいる人全てが、
同じ霊的な段階ではなく、
また立ち位置も同じではないということです。
霊的な段階は、
赤ちゃんのような状態の人から、
経験を重ねたベテランまでいますし、
立ち位置では、相反する二種類のものと、
その間でどっちつかずにいる人といます。
学校で言えば、
二種類の学ぶ方向が違う学校があり、
入学していない人がいて、
全ての人が同じ学年ではなく、
様々な学年に分かれ、
初等教育から高等教育までの様に段階がある、
ということになります。
沢山の可能性が秘められた学びの場である、
ということになりますよね。
赤ちゃんのままでいても、受け入れられるし、
成長したいと願うなら、学ぶことも出来る。
どっちつかずの人は、天国でも魔界でも選べるし、
天国の住人は魔界を、
魔界の住人は天国を選ぶ事も出来る。
あなたと私は同じ地球で学ぶ同級生でしょうか?
いえ、厳密に言えば違います。
同級生ではないです。
同級生がここを読むにくることはないです。
意味がお分かりになりますか?
同級生しかいない星であるなら、
赤ちゃんがお年寄りレベルまで成長するチャンスはありません。
天国しかない星なら、魔界を経験出来ないし、
そもそも魔界とは何なのかを知らずに終わります。
魔界しかない星なら、逃げ出したくても、
逃げることは出来ないのに、
地球なら自分次第で天国の住人になることも出来る。
チャンスと可能性がある。
こんな包容力のある星はちょっとないのでは?
私はこの地球さんのことをとても尊敬しているのです。
ここで暮らすことがどれほど素晴らしいことなのか、
分かる人が少ないのはとても残念に思います。
チャンスを活かそうとは思いませんか?
これは誰かが選んでくれる訳でも、
引っ張り上げてくれる訳でもなく、
それぞれ自由に好きに自分で選択することです。
全て自分次第になります。
例えとして赤ちゃんやお年寄りと書きましたが、
霊的な赤ちゃんの状態とは何でしょう。
赤ちゃんは生きることが基本になります。
ご飯を食べさせてもらって、
排泄を手伝ってもらって、
泣くか寝るかで、付きっきりでのお世話が必要です。
私はこのお世話係をしていません。
赤ちゃん状態の方は、別の誰かを探して下さいね。
お金を払えばマンツーマンで、
優しくお世話してくれる人もいるでしょう。
赤ちゃんはやがて、
自分の足で立ち、動き回り、
自分でご飯を食べようとするでしょう。
私が書いていることに対して、
分かりにくい、もっと分かるように説明して欲しい、
という人もいるでしょう。
例えばトイレトレーニングの時に、
私が育児をしていた時代は、
自分でトイレに行けた時にシールを貼るという方法を、
よく使っていました。
シールを貼るというのが、ご褒美になります。
シールを貼りたいから、自主的にトイレに行く様になる。
これを小学生の子にやらせたら喜ぶでしょうか?
中学生はどうでしょう?
むしろ罰ゲームに近いですよね。
自分のトイレの回数を数えられてしまうなんて。
好きに行かせてくれ!放っておいて!
となるでしょう。
褒めて一つ一つ目をかけて励まして、
自主的な行動を促さなくてはいけない段階の人と、
何も言わなくても自分で決めて自分で行動できる人、
全然違います。
私は後者の方に向けて、自分の経験や知識を、
共有したいなと思っています。
趣味の範疇でやっていることを、
わざわざオムツが取れない人に対して、
分かりやすく書いてあげる義務は私にありますか?
読むのをやめるか、別の人を探した方がよいでしょう。
人それぞれ段階があります。
基本になること、根幹になることです。
鏡を理解する為に、自分と向き合う、内観をして下さい。
そして、本当に鏡であるのかどうか、
自分の人生で確認して下さい。
ここを読むだけの人、とりあえず、ネタを拾いたい人、
実践もせずに文句を言う人は、
どうぞ二度と読むのをやめてください。
私は多くの人にお伝えしたいといった気持ちはないです。
ごく僅かな、もしかしたらたった一人かもしれない、
その人のヒントになったらいいなと思っています。
それと同時に、
書く事で次々に浮かんでくることを、
理解したことを整理しています。
読む人が誰もいないかもしれないけど、
私が書きたいことを書いて、
自分で納得しているので、
もうそれで完結しています。
つまり、まず自分の為に書いていて、
次に同じ道を歩くほんの少しの人への応援をしているのです。
誰かを助けようとかいった自己犠牲もありません。
けれども悪用されるのは迷惑なので、
(こちらがお伝えしていることを歪めて広めますから)
自己愛性パーソナリティ障害なんかの常連のパクリには、
自覚がないので、
自衛として、誰のことだか分かる人には分かるような言葉も
使っていきますね。
念を押してます。
お気を付け下さい。