2月4日 今日はルカ9:50以降を扱います。 「あなた方はその人をとどめようとし
てはなりません。あなた方に敵していない者は、あなた方に味方しているのです」
これはある人がイエスの名を使って悪霊を追い出しているのを見た時、ヨハネたち
が、「彼は自分たちと一緒に従って来ない」という理由でその業をとどめたことをこ
のたび遅ればせながら報告したことに対して、イエスが語られた言葉です。ですか
らこの事件が実際に起きたのは、イエスが十二人を二人ずつ組みにして伝道に遣
わした時のことでしょう(ルカ9:1~6)。ヨハネとしてもこの事件のことで後味の悪さ
がどこかで引っかかっており、ちょうど今、イエスが幼子の教えを説いておられる
最中に心にズキンと響き、まるで自分の行動が見透かされていたように感じて
黙っていられなくなり、すぐさま正直に告白したに違いありません。ヨハネのこうし
た反応の速さは、彼が「イエスから愛された弟子」と記されている理由とも関係して
いるのでしょう(ヨハネ13:23)。
49節で、「先生、私たちは・・・」と言っているのは、ヨハネが自分の相棒ヤコブを含
めただけではなく、当時その場に集まって来た他の使徒たちも含まれていたか、
あるいはその件を後に彼らが集まった時に話して、その行動に全員が一致して
「妥当である」と判断したことを意味しているのでしょう。それでもルカ9:10に、「そ
れから使徒たちは帰って来て、自分たちの行なったことすべてを彼に詳しく話し
た」と記されているその時に、この部分に関してだけ報告せず黙っていたのは、
「何か自分たちは後ろめたいことをしている」「この件をイエスに話したらダメ出しさ
れそうだ」という感覚が心のどこかにあったからなのでしょう。
しかし、「あなた方に敵していない」とはどういう意味なのでしょう? イエスは同時
に、それは「あなた方に味方している」とも言われました。ここで言う「あなた方」と
は紛れもなく使徒たちのことですが、それは主役である神の子イエスと彼らが物理
的に直結していたことから考えれば明らかです。この時すでにユダ・イスカリオテ
の裏切りの芽は成長途上にありましたから、それゆえにイエスが「あなた方」と言
われた中には当然ユダが含まれておらず、それはまた西暦33年ペンテコステ以降
の彼らをも暗示していたのでしょう。
イエスは何でも正当なものだけを彼らに与え、彼らはその通りのことを行なうよう
期待されていました。当時の彼らには問題点もいろいろありましたが、それでもそ
の不足部分はイエスがすべてカバーしておられたのです。ですから全体的に見み
れば、イエスに正しく従い続ける限り彼ら、つまり「あなた方」の側には真の義があ
りました。一方、悪霊を追い出していた人物は物理的には一緒に行動しませんで
したが、「あなた方」と言われる人々と全く同じかそれ以上のレベルで、同じ目的の
もとに「イエスの名を使って」神からの業を行っていましたので、「あなた方」に敵し
てはいませんでした。むしろ「味方している」、加勢の業を行っていたに過ぎないの
です。
ですからこの記述から分るのは、聖霊を受けたクリスチャンは自分を中心に、ある
いは「自分が属している大きな集団が唯一神に是認されている」などと思い込ん
で、それに属さない他の一切の人々を偽者と決めつけて排除したり、それが立派
な活動であるにもかかわらず悪く言ったりすることのないように注意しなければな
らないということです(ヤコブ2:8,9)。また世の中には真のクリスチャンでなくても
立派な人は大勢います。彼らは良いたよりを聞いてもクリスチャンになろうとしない
かもしれませんが、これからも自発的に命がけで立派な業を行うことでしょう。それ
は彼らが、神が人に期待された人としての要件をほぼ満たしているのであって、た
だ、まことの神と対面する機会に未だ恵まれていないだけなのでしょう(ローマ2:
14~16)。彼らにはなお定めの時のために感動的な親子の対面が取って置かれ
ているのです(使徒9:4,5 16:30~34 コリント第一13:12参照)。
このことから、マタイ12:30やルカ11:23にある「私の側にいない者は私に敵してお
り、私と共に集めない者は散らすのです」というイエスの言葉も全く同じことを意味
していることが分かります。それは何らかの物理的繋がりや組織的繋がりのことで
はなく、「神が意図された通りの幸福な世界観に近づくことを渇望し、そのために
正確な知識を取り入れ、実践し、それを永久に保つか」、あるいは「それらすべて
に全く無関心か」、という、人として存在し続けるための境界線を表わしているので
す。
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