どこからどこまでが奉仕ですか? | バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から

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聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4

今日はルカ81以降を扱います。  さて、この時期イエスは主にガリラヤ地方で


宣教をおこなっておられましたが、「イエスは、都市から都市、村から村へと旅をさ


れ、神の王国の良いたよりを宣べ伝えまた宣明された」とある通り、パリサイ人シ


モンとの食事事件以降さらにその業を加速させておられました。ルカ81の冒頭に


ある「その後まもなく」とは、その事件以降のことを指しているのでしょう。


イエスは、安定してご自分に追随する専属の弟子である十二人使徒を得て順調


に業を進めておられましたが、ルカ916に記されているような、十二使徒たちを


二人一組で伝道に遣わすことを開始されたのは、それからしばらくしてからのこと


でした。したがって物見の塔的解釈で言えば、彼らはまだ「バプテスマを受けてい


ない伝道者」にも満たない者たち、物見の塔の母親信者が伝道に連れて歩く幼子


程度の価値しかない者という位置づけになります。しかし、ルカ2228でイエスは、


「あなた方は私の試練の間私に堅く付き従ってきた者たちです」と彼らに言われま


した。その前の節でイエスは奉仕することこそが「偉さ」につながると述べておられ


ましたので、使徒たちがイエスに追随したその始まりから、彼らの決断と行動を十


分に「奉仕」として評価しておられたことが分かります。


その他に真の信仰を持つ弟子としてイエスたちに同行した人々の中には女性たち


も多かったことが23節から分ります。一般に男子は週六日世俗の仕事があった


ので、そうしたくてもずっと一緒というわけにはいかなかったでしょう。とはいえ、3


節を見ると、ヘロデ家の管理人クーザの妻ヨハンナのように「現役妻」の立場の人


も同行者に含まれていました。いったいどうやって? 彼女の夫は地域支配者の


家の管理を任されるほどですから比較的裕福な立場にあり、優秀な奴隷などの使


用人も十分所有していたため、時間にかなりの余裕があり融通がきいたのでしょ


う。大変興味深いのが、これらの女性たちは「自分の持ち物をもって」、つまり私財


を用いて、「彼ら」つまりイエスと十二人の活動を支えていたことであり、これらが


「奉仕」として聖書に記されていることです。「奉仕」という概念を勝手に時間に換


算して報告することで、これを「最も神聖な奉仕」と定義付け、しかもこれを野外宣


教や建設作業だけに限定している物見の塔解釈では絶対にあり得ないことです。


信者からの寄付が無ければ巨大な印刷機どころか紙一枚さえ買えないのに、「金


や物を多く寄付したからって、伝道が免除されるなんて思うなよ」的な貧しい発想


をするかと思えば、ルカ2124にある貧しいやもめのわずかな価の硬貨の寄付


を引き合いに出して、「貧しいからって、寄付することができないなんて言い訳する


なよ」と暗黙の内にくぎを刺し、一方では雑誌の最後の方に、「何の役にも立たな


いおまえでも、命と引き換えに大金を寄付できるこんな気の利いた特権もあるんだ


ぜ」と言わんばかりに、死亡時の生命保険金や財産の受け取り人を物見の塔に


指定出来ますよ的なコーナーをちゃっかり載せて、人の善意を手玉に取ろうとする


狡猾さも見られます。


盲信しているうちはこれらすべての教えが正しく思えて全く気付きませんが、いざ


彼ら指導部の本心や実態に気づいていてしまうと、すべてが無駄な出費だったよ


うに思えてはらわたが煮えくりかえってきます。確かに神との関係で本人が心から


行ったことについては、たとえ詐取されていても天に宝を蓄えていることになるとい


う慰めもありますが、なかなか腹の虫はおさまるものではありません。出来ること


なら、血と汗の結晶ともいえる私財については、本当に神の益になることのために


投じたいものです。ですから、イエスと使徒たちのために私財(労働力も含めて)を


投じることができた女性たちは、その額が多くても少なくても本当に幸せだったこと


でしょう。これらもまた神から見て立派な「奉仕」の一部なのです。


啓示715には、「その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている」だれも数え


つくすことのできない大群衆のことが記されています。もしここに記されている「神


聖な奉仕」が、野外伝道のことだけを意味しているというなら、物見の塔組織の教


えとつじつまが合わなくなってくるのではないでしょうか。文字通り一日24時間、一


365日、野外伝道する人はいません、いや不可能です。それどころか奉仕をささ


げる場所は「神殿」と記されているのではないでしょうか。これは実際どこにあるの


でしょう? それは信仰者の内側のことにほかなりません。コリント第二616にこう


ある通りです。「私たちは生ける神の神殿なのです。神が言われたとおりです。


『私は彼らの中に住み、彼らの中を歩くであろう。そして私は彼らの神となり、彼ら


は私の民となる』」。


つまりこの「神聖な奉仕」は、彼ら信者が言うところの「私は24時間クリスチャンで


す」と同義語です。その中でも睡眠時間が多くを占め、食事やトイレ、家事や世俗


の仕事、その他諸々の雑用がほとんどを占めているのではないでしょうか? そ


れでもクリスチャンは、建前上すべてのことを神に対するように魂をこめてそれに


携わるゆえに、その生き方全体が「神聖な奉仕」と見なされているのです(コロサ


323)。


逆に物見の塔幹部たちは、この聖句に自分たちの解釈を少しでも近づけなければ


ならない都合上非常に焦っており、そのためすべての信者の尻を昼も夜も叩いて


野外伝道に駆り立てて来たことが分かります。