今日はマルコ7:24以降を扱います。
マルコ7:24~30)・・・・・イエスはそこを立って、ティルスとシドンの地方に入られ
た。そしてある家の中に入り、だれにもそのことを知られないようにと望まれた。だ
が、気づかれないでいることはできなかった。それどころか、汚れた霊につかれた
小さな娘のいる女がすぐに彼のことを聞き、やって来てその足もとに平伏した。そ
の女はギリシャ人であり、国籍ではスロフェニキア人であった。彼女は、自分の娘
から悪霊を追い出してくださるようにとしきりに願い求めた。しかしイエスは初めに
こう言われた。「まず子供たちを満ち足らせなさい。子供たちのパンを取って小犬
に投げ与えるのは正しくないからです」。しかし彼女は答えて言った、「そうです、
だんな様。でも、食卓の下の小犬も小さな子供たちのパンくずを食べるのでござい
ます」。そこでイエスは彼女に言われた、「それまでに言うのであれば、行きなさ
い。悪霊はあなたの娘からすでに出て行きました」。それで彼女は自分の家に
帰って行った。そして、幼子が床に横になっており、悪霊が出て行ってしまったの
を見たのである。
この部分は2014年4月5日の記事で扱っています。よろしければそちらをご覧くださ
い。
マルコ7:31~37)・・・・・さて、イエスはティルス地方から戻り、シドンを経て、デカポ
リス地方の真ん中を通ってガリラヤの海に行かれた。ここで人々は、耳が聞こえず
言語障害のある人を彼のもとに連れて来た。そして、その人の上に手を置いてくだ
さるようにと懇願した。するとイエスは群衆の中からその人だけを連れて行き、ご
自分の指をその人の両耳に入れ、つばをかけてから、彼の舌に触れられた。そし
て、天を見上げて深く息をつき、「エファタ」、つまり「開かれよ」と言われた。する
と、彼の聴力は開かれ、舌のもつれは解け、彼は普通に話しはじめたのである。
そこでイエスは、だれにも言わないようにと彼らに言い渡された。しかしイエスが言
い渡せば言い渡すほど、彼らはいよいよそれをふれ告げるのであった。実際、彼
らは一方ならず驚き入っていたのであり、「あの人はどんなことでも上手に行なっ
た。耳の聞こえない人を聞こえるように、口のきけない人を話せるようにするのだ」
と言った。
冒頭部分の地理的推察は、2014年4月6日の記事前半部分で扱っていますが、耳
が聞こえず言語障害の人の癒しに関しては、マルコ以外の聖書筆者は詳しく扱っ
ていないようなので扱ってみます。
聴力は、成人になるまで健康な人生経験をしてから失われる場合と、幼いころに
失われるのとでは、言語能力の発達に大きな影響を及ぼし、全く異なってきます。
したがってこの場合の患者は、幼いころからの難聴者だったことが分かります。耳
が聞こえないと、残された視力が普通以上に敏感になり、それに重点を託すよう
になります。かといって頭を四六時中、全方位にぐるぐる回転させて見ているわけ
にもゆきません。健聴者では、視野に入らない領域を耳でもカバーしようとします
ので、耳をレーダーのように駆使して予期せぬ危険や気配をかなりの程度音に
よって察知できます。しかし難聴者ではこの機能が全くないのですから、多くの予
期せぬ事故と遭遇するわけです。したがって人生の長さがそのまま恐怖体験の蓄
積になるでしょう。このようなわけで難聴者は常に一寸先の見えない領域からやっ
て来る危険に脅えていなければならないのです。そこでイエスは、まず群衆の中
からその人だけを連れて行きましたが、そこには安心できる地帯をまず確保する
ことによって、患者の集中力を癒しにすべて向けさせる意味があったでしょう。次
いでイエスは、視覚と触覚にうったえる方法でパントマイムを行っています。彼は
その二つの感覚から取り入れる情報によって、それが何を意味するかをすばやく
推論することにたけているからです。イエスの指が耳に入り、つばをつけた指が舌
に触れることによって、自分がこれから癒されることを期待させ、さらに、天を見上
げて深く息をつくことによって神によってその力が得られること、さらに「エファタ」と
いう口の動きによって、塞がれていた障害がすべて開かれることを感じ取ることが
できたでしょう(難聴者は多くの場合、自然と読唇術を身に着けているからです)。
またこの癒しは、西暦33年のペンテコステの日に、聖霊を注がれた人々が一式の
言語を備えられて、それぞれ自分が全く知らず、それまで話せなかった国語で突
然話しはじめた時と似ていて、この患者もそれまで文字でしか知らなかったヘブラ
イ語を正しい発音も含めて完璧に備えられたのです。年を取った者にとって新しい
言語を学ぶことは大いなる挑戦ですが、神にとってその能力を一瞬でそっくり備え
ることは不正でもなんでもありません。