小指一本でも全体を動かせる世界 | バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から

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聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4

今日はマタイ 2611 以降を扱います。 「あなた方にとって、貧しい人たちは常


にいますが、私は常にいるわけではないからです」。


イエスをまさに裏切ろうとしていたユダ・イスカリオテを除いて、そこにいた他の弟


子たちすべてに対してイエスは今、人の持つあらゆる資産の道理にかなった賢い


用い方、それに対する正しくて平行の取れた見方を伝えておられます。 ある人は


自分の蓄えを 「時と予見し得ない出来事のため」 と言ってひたすら使わず、ただ


「貯蓄」 という目的のためだけに増やし続けます。 確かに通帳の残高が時の経


過と共に増えて行くのは楽しみでしょう。 ところが、そのうち老齢になり、使い道が


見えなくなってきます。 結局、「時と予見し得ない出来事」 なんて起きませんでし


た。 いや、もしかするとすでに何度も起きていたのかもしれませんが、お金を使う


のが惜しくなってしまい、「今はまだその時ではない」 と自分に言い聞かせていた


のかもしれません(ヤコブ514)。


一昔前から流行り出した 「おれおれ詐欺」 を考え出した人たちにとって、そんな


老人たちは格好の餌食だったのでしょう。 「孫のためなら、今こそ使える!」「い


いことができる!」「ほとんど接触もなかった孫に、今こそ、いいおじいちゃんぶりを


演出できるかも」 などと考えていたのかもしれません。 そうなると今度は、たとえ


騙されても使わなければ自分の立場が保てなくなっています。 結局は自分のた


めなのです。 詐欺師たちはそこまで人の心理を読んで巧妙に計画を立てていま


す。 イエスはルカ 168 でそれを 「この事物の体制の子らは、自分たちの世


代に対しては、実際的なやり方の点で光の子らより賢いのです」 と言われまし


た。 ですから、神からの祝福を得るために巧妙に考え尽くすことは褒められるべ


きことです。 もちろん世の法にも神の法にも抵触しないようにすべきですが、見え


ないものを見ているかのように熱心になれること自体が立派な信仰だからです(ヘ


ブライ1127)。 かつてモーセの後継者であったヨシュアの時代に、滅びに定めら


れていた諸国民に属していたギベオン人が、巧妙な嘘をついてまでイスラエルに


和平を願い出ましたが、見事にそれは神によって受け入れられました(ヨシュア9


127)。 それは彼らがまだ諸国民だったからでしょう。 エホバは心からへりくだ


る者を退けたりはされません。 動機が善ければ少々間違っていてもその人の置


かれている立場で祝福を与えてくださり、その間違いさえもやがては親切な仕方で


正してくださるのです。


この点で昨日の記事に出て来たマリアやその兄弟たちの取った行動は、遥かに


高い信仰の質によるものだったことが分かります。 なぜでしょうか? まずはイエ


スの任務が成功しないことにはすべてが始まらないからです。 彼らはそのことを


よく理解していたので、全神経をそれに集中しました。 ある人はこう思うかもしれ


ません。 「そんなに高価な香油をイエスの頭に付けたからといって、それが実際


にどうなるわけでもないでしょう。もしかしたら目立ちたかっただけじゃないの?」。


しかし、そうではありませんでした。 彼女はもっともっと深く考えていたのです。 


ルカ 738 を見ると、彼女は自分の流す涙と髪の毛で、土ぼこりと汗で真っ黒に


なっていたと思われるイエスの足をまず洗い流しています。 涙で足を洗うとは、い


ったいどれほど大量の涙が出たのでしょう? その涙の理由の一つに、44節には


「私はあなたの家の中に入りましたが、あなたは私の足のための水をくれませんで


した」 とあり、パリサイ人のシモンは、イエスと一緒に食事をすることをしきりに求


めていたにもかかわらず、実はイエスを不遜にあしらっていたことが示されている


のです。 シモンは彼女の取った行動によって自分の矛盾した行動が暴露され、


顔から火を噴くほど動揺したことでしょう。 一方、マリアはこの状況を見て、キリス


トに対する人々の反応のあまりの悪さに衝撃を受けたのでしょう。 それで、その


時から彼女は、「微力ながら自分にできる最大限のことをイエスのためにしなけれ


ば」 と心に決め、それを実行に移し始めたのです。 そしてこの人々の反応はイ


エスが亡くなる数日前にもあまり変わっていませんでした。 それで彼女は、イエス


がいかに価値の高い方であるのかを人々に示すためにあれこれと思案し、三百デ


ナリもする香油を用いて、彼女に許される最大限の証言を無言のうちに行ったの


です。 しかしその時はまだ、ユダ・イスカリオテは別として、他の弟子たちは全くそ


の意味に気づいてさえいませんでした。 イエスの死後、聖霊を受けるようになって


から、ようやく彼らはイエスの言葉の意味が悟れるようになり、マリアの取った行動


や、それをイエスがどう扱われたのかを思い起こし、そこから逆に学ぶようになっ


たはずです。 何と優れた資産の用い方でしょう。 こうした大胆な発想は、後に危


機的な状況にあったエルサレムの弟子たちが、「すべての資産を共有して分配し


合う」 という行動にも少なからず影響を与えていたことでしょう。 まさにマリアの


願ってきた通りのことが実現していたのです。 ヨハネ 1421 にある通りです。


「私のおきてをもってそれを守り行なう人、その人は私を愛する人です。さらに、私


を愛する人は私の父に愛されます。そして私はその人を愛して、自分をはっきり示


します」。