二日間お待たせしてしまいました。 お陰様で何とか必要を満たし、また他の方々のブログなども多
少閲覧する時間が持てました。 誠にありがとうございました。
今日は引き続きマタイ 6:19~21 を扱ってみたいと思います。 クリスチャンは宝をどこに蓄える
のか? 冒頭に 「あなた方は自分のために地上に宝を蓄えるのを止めなさい」 とあり、地上にでは
ないことが明白に述べられています。 しかしよく見ると、非とされているその宝は 「自分のために」
蓄えられたものであることが解かります。 それに対してこんな言い分があるかもしれません 「これ
はみんなのために蓄えているのです」 とか 「神の物事のために蓄えているのです」 などです。
確かにイエスのご一行には金箱が用意されており、これは貧しい人たちのためとか自分たちの必要
を賄うためとかに使われていました。 それで本当にそうであるなら問題はないでしょう。
それに対して悪い例は、そのみんなの金箱から常々くすねつつ自分のために蓄えていたユダ・イスカ
リオテであるとか、 会衆発足後、エルサレムに滞在していたすべての弟子たちのために霊の指示
によってなされていた資産の完全共同運用システムに逆らって個人の分を別に取り分けていたアナ
ニヤとサッピラ。 これらの二つは恐るべき裁きの前例となっています。 もちろん今日のクリスチャン
がそのような完全共同資産運用システム下にいるわけではありませんし、ユダのようにみんなの金
箱を預かる立場にあるわけでもありません。 それで個人の資産は個人にその管理運用が全く任さ
れているという点は否めません(ルカ16:9~12)。 全責任は個人にあります。
ある富んだ支配者とイエスのやり取りが記されているマタイ 19:16~26 の中で、イエスは 「富ん
だ人が神の王国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が易しいのです」 といわれました。 それに
対し弟子たちは 「いったい誰が救いを得られるのでしょうか?」 と言います。 しかしイエスは彼ら
の顔をまともに見て 「人にとってこれは不可能でも、神にとってはすべての事が可能です」 と言わ
れました。 ここから解かるのは、富んだ人が自分の考えや力に頼ってそれを行おうとしても、それは
不可能であることを示されたということです。 この考えは道理にかなっているのではないでしょうか。
また霊が内側から促す油注がれた者とそうでない者とでは明らかに違いが出て来るでしょうし、神を
どれだけ近しく知っているかによって信仰の度合いも大きく差が出て来るでしょう。 それで資産の運
用の仕方は、全くそれぞれの立場と良心の状況によって異なることが解かります。 コリント第二8:
10~12は見事にこれを言い表しています。 10節最後に 「行いたいという願いをも起こしたからで
す」 とあり、コリントのクリスチャンの心の状態が 「義務感」 から 「自分の願い」 に変化した、こ
こが最重要な部分であると思われます。 12節後半では 「持っていないところに応じてする」 業
は、逆に神にとって受け入れ難いことをも示唆しています。 ある人はする気持ちは強力でも持ち物
がほとんどないかもしれず、ある人は莫大な資産を持っていても、する気持ちは僅かかもしれませ
ん。 だからといって持っている人に脅しをかけたり騙し取ったりはできませんし、やる気のある人の
気力を叩き潰すこともふさわしくありません。 そうではなく続く 13~15 節にある通り、全体として
の調和を全ての者が考えながら行動すべきであるとパウロは述べています。 クリスチャンは常に会
衆全体の益を考えているべきであり、これが自分のためにではなく、みんなのために地上に蓄えた
物を運用すること、つまり 「天に宝を蓄える」 ことに繋がっていて、これが「自分のために天に宝を
蓄える」 ということです。
ではなぜ天に蓄えられる宝は 「自分のため」 になるのでしょうか? それは天が完全な者たち
の集団だからであり、もはや誰も何の助けも必要としない健康な世界だからでしょう。 イエスが言わ
れた王国が来ますようにという祈りは実にそのことを表わしており、今や反逆勢力さえ完全に追放さ
れ、不完全な14万4千人が完全になってそろった時、本当の意味で天が完成したことになります(啓
示19:8)。 ですからそれは完全なる利他的集団の一員となるための自分の分の貯蓄なのです。
その貯蓄は利他的であることを死に至るまで示すことによって成し遂げられます(啓示2:10)。 ルカ
5:31,32 でイエスが言われた 「健康な人に医者は必要でなく、病んでいる人に必要なのです。
私は義人たちではなく、罪人たちを悔い改めに招くために来たのです」 という言葉からも理解を得る
ことができます。 病んでいるすべての人を癒すため、まず選ばれた者たちが健康になること、そして
彼らが千年のあいだ癒しの業に携わり地上の全ての者を健康に導くこと、これが模範的な祈りの三
番目、地上においてもなされる神のご意志だからです。