聖書全体から理解できる神の裁きには、順序や種類があることが解ります。 神と深く係わった人た
ちの中での裁き、単なる死罪と永遠の滅び、ほとんど神と係わらなかった外部の人たちの裁き、
聖霊を冒とくした者とへりくだる者。 これらを全部ごちゃまぜにして人間の理解と感情で裁くなら
とんでもない反発を招くことになります。
それで、羊とヤギに関する本当の理解が必要です。 イエスが、ルカ 10:29~37 で語られた、
半殺しにされたユダヤ人を助けた親切なサマリア人のたとえ話から理解を得ることができます。
「私の隣人とはいったい誰ですか?」 これに対してイエスが語れた結論は、当時のユダヤ人にとっ
て衝撃的だったことでしょう。 彼らがこれまで持ってきた偏見による概念を一瞬のうちに吹き飛ばさ
れてしまったからです。 しかも、ギブアンドテイクですらありませんでした。 ただ、それが誰であれ
助けを必要としている人に、自分が無償で必要物を備えて隣人となってあげることでした。
イエスの掟は人間の掟よりはるか上の、そのまた上にあるのです。 しかしこれは特別なことではあ
りません。 これができて初めて、イエスから本当の 「人」 と見なされるのです。 だからこそイエス
は、「人の子」 と言われ、人が神の特質に与るよう悔い改めの呼びかけがなされ、それに応じた人
たちすべてが彼の兄弟と見なしていただけるのです。
もしそれが物見の塔が言うように、現在ごく少数しかいない油注がれたクリスチャンに接したことによ
って羊とヤギが分けられるというなら、一体どれほどの成果を示せるでしょうか?
実際、マタイ 25:31~46 の羊とヤギの例えの中には、イエスの兄弟つまり 「油注がれたクリス
チャン」 など出てきません。 その例えに出てくるのは、イエスとみ使い、羊とヤギに分けられた人々
だけです。 したがって、「これら私の兄弟のうち最も小さな者の一人に・・・・」 と言われたのは、
その場に居ない者ではなく、まさに今そこで分けられたばかりの羊のグループ、彼らがイエスの兄弟
たちなのです。 彼らは互いに愛を示し合った人々なのです。 35,36 節は、彼らがいつも互いに
良いことを行っていたことが解ります。 一方ヤギは、42,43 節から、いつも無視していたことが解
ります。 親切なサマリア人のたとえ話に出てきた祭司とレビ人にそっくりです。 これらの記述は、
分けられる人々がいかに毎日真理と接する立場にいたかをはっきり表しています。 したがって、
羊とヤギは、クリスチャンと称する人々の中から分けられることになります。 以下その根拠となる聖
句の一例。
マタイ 13:47~50 の引網の例え、網にかかった、つまり集められた漁獲物の中から良い物とふ
さわしくない物が分けられた。
マタイ 13:24~30 の小麦と雑草は会衆の中での出来事。
マタイ 12:30 「私の側にいない者は私に敵しており、私と共に集めない者は散らすのです」 これ
は分けられる人がイエスの近くにいることを暗示しています。 「側にいない」「共に集めない」 とは、
マタイ 7:21~23 の 「主よ、主よ」 という者たちだからです。
エゼキエル 9:4 にある 「都の中、エルサレムの中で行われるすべての忌むべきことのために
嘆息し、呻いている者たち」 これが羊です。 その他の者たちは年齢に関係なく惜しみ見られたり同
情を受けることなく抹殺されます。 これがヤギです。 その裁きはまず 「老人たち」 つまり統治体
などの指導者から始まります。
ダニエル 8章 では、おそらくイエスはここに登場する雄羊と雄ヤギをモチーフに例えを考えられたと
思われますが、これは羊とヤギの境目となります。 つまり、バビロンとメディアペルシャが羊、ギリシ
ャとローマ以降がヤギで、前者はユダヤ国民に好意的で、王国第二の地位にユダヤ人を就けること
さえしました。 後者は、何もしないか、迫害者か、腐敗させて乗っ取ったか、まさにヤギです。
また驚くべきことに、ダニエル4章はネブカドネザルの書いた文章です。 霊感による聖書の一部が
諸国民の王によるものです。 さらに興味深いのは、この巨木の幻の中で切り倒された根株に掛けら
れた二つのタガは、鉄と銅。 つまりヤギ国家なのです。 このヤギ国家がギリシャ以来ずっと世界を
締め付けていたのです。 では、このタガが外された時、果たしてどんなことが起きるでしょう?
以下は、「イエスの兄弟とは誰でしょう?」 に関係する聖句。
ルカ 8:20,21 の「私の母、兄弟たちとは、神の言葉を聞いて、それを行うこれらの人たちのこと
です」 聖書の言葉を自分に当てはめる人たち。
使徒 5:13 「他の者たちは誰も彼らに加わる勇気を持ってはいなかったが、それでも民は彼らを誉
めたてるのであった」 神の業に賛同する者たちがいます。
ルカ 9:49,50 の、「イエスに敵していない者」 で同様の業を行う者たち。
以下は、「後回しにされる者たち」 の根拠となる聖句。
マルコ 3:27 の、「まず強い人を縛る、それからその家の家財を強奪する」 という聖句も、最も強
力なサタンが縛られる1000年統治期間中に復活する人々を真理に導く業のことなので、それらの
人々は一度死ぬ、つまり 「後回しにされる者」であることが解る。
啓示 19:21 は、「長い剣で殺されたその他の者たち」 とあり、20節の、「硫黄で燃える火の湖
に投げ込まれる者たち」 と区別されている。 もし、すべてがゲヘナであれば、ここであえて別の裁
きの方法を示す必要はありません。 したがって彼らは単なるハデスの裁きを受けるのです。
以下は、「どこに羊がいるか」 の根拠となる聖句。
ダニエル 12:2 にある 「塵の地に眠る者たちのうち目を覚ます者が多くいる」 とは、大患難
の時です。 彼ら羊はどんな悪状況に陥っても決して無くなることをエホバがお許しになりません。
実際イエスは、これらの者たちを集めるために伝道を開始されました。 今日も同様です。
マタイ 10:40~42 「預言者、義人、弟子」 羊はそのどれかに反応し、 そして報いを受けます。
マタイ 9:36 「羊飼いのいない羊のように痛めつけられ、放り出されていた」 偽牧者によって苦し
められているのが真の羊です。
ルカ 19:10 「人の子は、失われた者を尋ね求め、それを救うために来たのです」 どこから失われ
たのか? イスラエルから、つまり油注がれたクリスチャン会衆からです。 誰が失われたのか?
油注がれたクリスチャンです。 誰が散らしたのか? 歴代の統治体です。 したがって彼らを探し出
して救う必要があります。 イエスは今それを優先したいのです。
ある人々が言うように、「なぜ、復活の希望があるなら、宣べ伝えてまで滅ぼそうとするのか?」
一つには、物見の塔の指導者が宣伝するように、「今集めるべきなのは、他の羊の大群衆で、聴か
ないのはヤギで、永遠の滅びです」 というのは、神の目から見て正しくないからです。
本来は、油注がれたクリスチャンをあらゆる国民から集める業が主体となっているべきなのです。
その際、副次的に他の羊が集まってきますが、その他聴かない人たちは「後回しにされる者たち」で
あり、永遠の滅びではありません。 言い換えれば、14万4千人の数がまだそろっていないからで
す。 これが第一の目的であり、それゆえに最後の者に証印が押されると、四方の風が解き放たれ
るのです。 これは、「あなたの王国が来ますように」 という祈りが主の模範的な祈りの中で二番目
に重要な事柄であることからも解ります。 天の王国完結は、王イエスとその花嫁14万4千人がそろ
って初めて成し遂げられるからです。 これが完成しない限り本当の意味で地上を顧みることはでき
ません。 次いで地上において千年の間神のご意志がなされるのです。 これらは神の問題解決に
おける法的優先順位です。 当然のことながら、エホバのみ名の神聖さの回復は最重要ですが、こ
れはハルマゲドンの際ご自身が明らかにされます。 「あなた方は私がエホバであることを知らなけ
ればならなくなる」 とあり、恐るべき方法で強制的に全地に知らされます。
二つ目は、ルカ 10:11で 「神の王国が近くに来たということは覚えておきなさい」 とイエスが言
われた通り、今の時期に音信を退ける彼らの記憶に、その事実を留めておく必要があるからです。
これらの記憶があるゆえに、新しい世で復活させられた時、その政府に追随できるかどうかの判断が
できるのです。 この事物の体制の最期に何が起きていたのか? どうやってそれが終わらされたの
か? その後どんな良い希望があると彼らは語っていたか? エゼキエル 33:33 に 「彼らは自
分たちの中に預言者がいたことを知らなければならなくなる」 とある通りです。 彼らは神とキリスト
の深い憐れみと許しによって死の眠りから覚めた後、その続きをどう生きるのかという選択を迫られる
必要があるからです。 果たして多く許された者が多く愛するようになるのか(ルカ 7:47)。 見も
のです。
啓示 7:13 には、「すべての国民と部族と民と国語の中から来た、誰も数え尽すことのできない大
群衆」 について、24人の長老の一人から 「白くて長い衣を着たこれらの者、これは誰か、またどこ
から来たのか」 と使徒ヨハネに質問されています。 「誰か? またどこから来たのか?」という表現
は、本来は油注がれたクリスチャンだけを集めるのが目的だったことを示唆しています。 これは一世
紀当時のクリスチャンの疑問をよく表しています。 「どうも自分たちとは違う人々の存在」「これらは
誰に属するのだろう?」 という他の羊の存在に関する疑問です。 さらに1935年当時の状況も良く
表しています。 「他の羊級」の存在が公になったのはこの時でした。 でもこれで終わりではありま
せん。 さらに今後、最後の成就が見られるのです。 「7??万のはずだったのに、どこからこんな
にたくさん? これはいったい誰?」 これらはどの時代でも、成長途上の油注がれたクリスチャンの
認識という目線から書かれています。 油注がれてはいない遥かに数が多い大集団が隠されていた
ことからくる驚きです。 それは人の考えとエホバのお考えとの大きな隔たりをよく表しています。
事実、未来の24人の長老自身はそれを経験してすでに知っているので、はっきり知らないヨハネに
尋ねているのです。 もしかすると彼は未来のヨハネかもしれません。
さらに大群衆は、以下のこととも深く関係しています。
ローマ 2:14~16 「律法がその心に書き記されていることを証明する者」「その良心が彼らと共に
証をする者」「神がキリスト・イエスを通して人類の隠れた事柄を裁く日」 とはいつのことか?
それはまさに今、この時期に成就しようとしています。 明らかに聖書が書かれ始めた野蛮な時代の
諸国民と現代の諸国民とでは、この点でまったく違います。 今ではどこの国でも、そこそこまともな
律法を持っています。 人間として当然と思えるくらいの法は与えられる時代になりました。 彼らは
生まれた時からこの法や親子関係の下で様々な規制を受けながらある程度人間らしく成長してゆき
ます。 これらの律法は、数千年に及ぶ人間の利己主義の試行錯誤的教訓の集大成ともいえます。
聖書ではこれを 「地」 と呼んでいます(啓示 12:16)。 神が与えた律法も少しは影響を与えて
きたかもしれませんが、そもそもこちらは動機が愛であり、似ていながら全く違います。 前者は、犯
罪から自分の身を守るのが目的ですが、後者は、善良な業によって互いを築き上げ神に栄光を帰す
のが目的です。 それですべての人は今、心から悔い改めてこの精神を受け入れる必要があるので
す。 キリスト教世界に所属する人は、長い伝統のゆえに今さら変えられない教理もあるでしょう。
それはエホバの証人とて同じことではないでしょうか。 しかし内面は見えないので意識、認識は変
えることができます。 表面上は間違った教理を掲げていても、行動で正しければ偽善とは言わない
でしょう。 その行動は心から出てくるのです。 その心が、やがて全体を変える力の原動力です
(ルカ 11:41)。
マタイ 15:11,18 では、「口に入るものがその人を汚すのではなく、口から出るものがその人を
汚す」「口から出るものは心から出る」 とあります。 ここで言う口は、表面上のことを意味しているの
ではなく、心と連動した行動を意味しています。 それで心を清く保っていれば、やがて変化の機会
は訪れるでしょう。 神ご自身がその機会を与えてくださるからです。
興味深いことに、この世で最も珍重される宝石ダイヤモンドは他の宝石とは違い、有機物のもとにな
る炭素の結晶体です。 私たち人間も地の塵つまり有機物からできていますが、これは偶然などで
はありません。 結合の完全な絆である愛を身に着け(コロサイ 3:14)、それによって、もしキリスト
教世界の人々や他の宗教の人々さえも神の愛で結合できるなら、その姿は神の目から見てダイヤモ
ンドのように美しくなれることを神はすでに知っていたのでしょう。 自分の宗教に神の愛を加えること
を非とするのはどんな宗教でしょうか(ガラテア 5:22,23)? グループとしては不可能ですが、
個々の人々のレベルでなら十分可能です。 それらの人たちはやがて、啓示 7:15 の 「大患難
から出てくる人たち」 に加わるでしょう。 彼らは 「昼も夜も神に神聖な奉仕を捧げている」のです。
彼らは表面上の崇拝ではなく、心から出る業を行うからです。 「よい木はみな腐った実を生み出すこ
とができない」 とあるように、すでにある宗教の中で良い心を持った人たちが神の愛を知るようにな
った状態を表しているからです。 一方 「悪い木は腐った実しか生み出せない」 とあるように、悪い
心を持った人は、神を知っていると公言しても、その業も神の是認を受けてはいません。 イエスが山
上の垂訓の最後で述べたように、愛の知識を日々活用することに喜びを見出している人は、決して断
たれることはないのです。