ルカ1:1~3では、その当時イエスに関して起きた事柄について「多くの人がその叙述をまとめようと
手がけた」とあるように、神の民に関する時代の大きな出来事の境目の前後には、霊感による書物
が作成されている。
これら聖書は、そうしたものの中から選ばれたものである。 今日がまさにその時代である。 6000
年に及ぶ事物の諸体制が今終ろうとしており、同時に新しい事物の体制が始まろうとしている。 これ
ほど大きな転換点は未だかつてない。 私たちは初めからの目撃証人であり、この音信に仕えるよう
になった人々なのである。
聖書はまさに神の民に関する歴史を扱っており、律法があり、預言があり、詩がある。 そしてこれら
を実際に書き記したのは人間である。
それで今、神の霊を持つ者たちよ、預言せよ! 新しい油を蓄えよ! 古い人間の理解や解釈は今
や燃え尽きようとしている。 その油はもはや何の役にも立たない。 それはパン種で満ちていた。塊
り全体は発酵し、アルコールと炭酸ガスで満ちていた。 ゆえにそれは永い眠りを誘った。 そして多
くの者をつまづかせ、散らした。 とはいえ、それを許されたのは神である。 それは聖なる者と邪悪
な者をふるい分けるためである。 マタイ25:1~13の成句がこれから成就するためである。
(どうぞご自分の聖書からお読みください)
統治体は、「私たちはそれを認めません!」 という時、油注がれた彼らの二人か三人以上がイエス
の名において同意しているので、よってこの決定は天においてすでに縛られている、と言うのです。
しかしそれより優れた正しい理解が、別の油注がれた二人か三人によって同意されるなら、それは
すでに天においても縛られ、今までの古いほうは廃されるのです。
古い革袋に新しいブドウ酒はふさわしくありません。 それが腐っているならなおさらです。 それらを
混ぜる人はいません。 私たちはそれを新しい革袋に蓄えるのです。 しかし、憎しみをもってするの
であれば何の意味も祝福もありません。 喜びのうちにそうするのです。 エホバに是認していただく
ためです。 そして定めの時を待たねばなりません。 先走って行動しても、エホバが閉ざしているな
らそれを開けるのは不可能だからです。 また匿名で預言しても法的には無効です。 私たちは燭台
の上に輝くともし火だからです。 それで何事にも時と法が関係していることを知っていなければなり
ません。
預言では、ともし火が燃え尽きる時、つまり大患難勃発の時、すべてのことが明らかにされるからで
す。 この時、この組織が永い眠りから覚める権限を上から与えられます。 油を蓄えている者たち
は、すぐに実名で千二百六十日の間預言します。 一方、蓄えていなかった者たちは、そこで終わり
棄てられます。 その時になって始めても無効だからです。 これがエホバによる「時と法」です。
とはいえ、啓示10:11では、この千二百六十日の預言が二度目であることを示し「再び」と言ってい
ます。 では、一度目の預言とはなんでしょうか?
それはまさに今、私たちが、匿名であれ、どんな形であれ、こうした霊による啓発活動をしているこの
預言のことを指しています。 組織としては眠っていても、個々のクリスチャンが目覚めていることは
主人であるイエスの命令だからです。 実はこれが、啓示9:1~11のイナゴによる災厄の成就で
す。 それまで長い間底知れぬ深みの坑に閉じ込められていた今日の油そそがれたクリスチャンた
ちは、イエスによって承認されており、坑のカギはすでに開けられています。 この点で統治体も内
面はともかく、書面上では既に渋々その存在を認めているからです。
それで私たちが、主人から預かっているタラントを決して地中に隠すことのないようにしましょう。
サソリが持つ毒針のようなその霊の働きは、今や上からの権威でもあるのですから。
西暦一世紀に、完全にそろった聖書がすでに出来上がったのであれば、この新しい巻物の中身は何
か? それは血に値するもの、神の奴隷たちの血のにじむような経験を扱う彼らの歴史の書であり、
彼らに対する多くのそして重い罪の許しがどのように成し遂げられてきたか。 自分のしてほしい通り
に、どのように他の人にしてきたか。 愛の実践編ともいえる書であるに違いない。 諸国民を癒すた
めの実際の知恵がそこにはある。 残念ながら今日の多くの人にはそれがまるで届いていない。 そ
れは短期間になされることではないからである。 呪うのではなく、どのように祝福してきたか。 悪に
対して、どのように善で返してきたか。 何がどのように例えとなって心が変化していったか。 それら
は実に感動的な物語である。 彼らの歌う新し歌は、そういう歌である。