<.カティンの森(KATYN・ポーランド・2007)> ★★★★★


こんな映画見ました-KATYN1

こんな映画見ました-KATYN2

 岩波ホールでどうしても見たかったポーランドのアンジェイ・ワイダ監督作品<カティンの森>を見て来ました。日曜日とは言え、1回目の上映は満席の盛況でした。


>「カティンの森事件」とは旧ソ連 国内のスモレンスク に近いグニェズドヴォ村近くの森で約4400人のポーランド 将校 捕虜 国境警備隊 員・警官 ・一般官吏・聖職者 がソ連の内務人民委員部 秘密警察 )によって銃殺された事件。カティン(カティニ Katyń )はこの事件があった場所の近くの地名で事件とは直接関係ないものの覚えやすい名前であったため、当時のドイツが対外宣伝用に使用した。  (Wikipedia


カティンの森を始め数ヶ所の処刑場でソ連軍によって殺されたポーランド将兵は1万5千人に及ぶそうですが、この映画の監督アンジェイ・ワイダの父も犠牲者の中の一人だったそうです。大戦中は自らレジスタンスとしてワルシャワ蜂起に参加、戦後は映画界に入って自らの経験をもとに<地下水道>、<灰とダイヤモンド>、<大理石の男>等の名作を発表しましたが、81歳(当時)を迎えたワイダ監督の映画人生の集大成とも言える作品がこの<カティンの森>です。


>1939年9月、ポーランドは西からドイツ軍、東からソ連軍に侵攻され、ポーランド軍は壊滅します。将校のアンジェイ大尉はソ連軍の捕虜となります。夫を気遣って追って来た妻・アンナと娘・ニカの目の前で、アンジェイ等の将校は貨物列車に乗せられていずこかへ移送されてしまいます。ソ連軍占領地区に取り残された母娘は、ドイツ軍占領地区のクラカフの自宅へ帰ろうとしますが許可が出ません。その年11月、クラカフでは大学が閉鎖され、アンジェイの父・ヤン教授等は反独思想の持ち主として逮捕されてドイツへ送られます。

>1940年、アンナ母娘は何とかクラカフに戻り、義母と3人で男達の帰りを待ちますが、ドイツからヤン教授病死の知らせが届きます。その頃、アンジェイは収容所で発熱し、親友のイェジからセーターを借りていましたが、そのまま別の収容所へ移送されて行きます。

>独ソが激突している1943年、ドイツ軍はカティンの森でソ連軍によって虐殺された大量のポーランド軍将官の遺体を発見したと全世界に公表します。判明した犠牲者の名前が公示され、イェジも含まれていましたが、アンジェイの名前はなく、アンナは生存の可能性を信じます。

>1945年、ナチス・ドイツが壊滅し、ポーランドはソ連の支配下におかれます。或る日、今はソ連軍の将校となっているイェジがアンナを訪ねて来て、アンジェイに自分の名前いりのセーターを貸したことから、遺体が誤って識別されたらしいと告げ、アンナは卒倒しますが、やがて真相究明に立ち上がります。


 映画は東西両方からのソ連とドイツの侵攻に大混乱の中で逃げ惑う市民の描写から始まり、1人の将校とその家族を中心に物語が展開します。題材が題材だけに陰鬱で重苦しいシーンが続きますが、決して退屈ではなくサスペンスとしても大いに迫力がありました。ただ、冒頭に簡単な説明が出ますが、1939年当時のソ連とドイツの関係(当時、この両国はポーランドの領有を競ってはいましたが、まだ戦っておらず、ソ連とポーランドは友好条約を締結していたのに、スターリンが一方的にこれを破棄して侵略を開始したということと、自国の独立を死守しようとするポーランド軍将校達は両国どちらからも目障りな存在だったということを念頭に入れておかないと物語が判りにくいかも知れません。



 アンナを中心に物語は進行し、アンジェイがどうやらカティンの森で殺されたらしいという展開となりますが、肝心の虐殺シーンは登場せず、ちょっと拍子抜けのような気持ちがしていましたが、最後の10分間ほどで一気にソ連軍が如何にしてポーランド将校達を虐殺したかが克明に描写されて強烈な印象を受けました。構成としてもうまいと思いました。実は、黒澤明監督の晩年の作品が往年の迫力を失って妙に角のとれた作品となってしまって、その都度失望したので、当時81歳のワイダ監督のこの作品も「或いは?」と危惧したのですが、むしろ、彼の遺書とも言える渾身の力作で期待は裏切られませんでした。アカデミー外国語映画賞にノミネートされながら受賞を逸したというのは、何か政治的理由があったのかと慮ってしまいました。


 この事件は当初、ドイツ軍によって発覚しますが、ソ連はそれを逆にドイツ軍の仕業とし、真相を知っていた米英も”友邦”ソ連のためにあえて否定しませんでした。真実が明るみに出たのはソ連邦が崩壊した1989年になってのことで、それまではポーランド人自身も口をつぐまらざるを得なかったようです。地勢的にも歴史的にも常に迫害されてきた中央ヨーロッパ諸国の悲劇を代表するようなこの事件に深い感銘を受けました。