夢の女性
館山湾に沈む夕日を見送った後、凪は渚銀座の「小料理 藤子」に向かった。渚銀座というのは、館山駅の海側に広がる飲食店街を言う。昭和の時代には星野哲郎作詞、中川博之作曲、山田太郎の歌唱でレコードが発売された「花の館山」という楽曲の中でも歌われたエリアである。小料理 藤子は、夕日を見た海からは、歩いても5分もかからない。凪は久しぶりに藤子の暖簾をくぐった。
「こんばんわぁ」
「あら、凪くんじゃない、いらっしゃい」
「久しぶりねえ」
「はい、2年間留学していたものですから」
「ええ? 留学って外国に行ってたの?」
「はい」
「あ、じゃあ石井くんのおかえり会の予約って、凪くんのことだったんだ」
「はい、お世話になります」
しばらくして、幹事の石井が入ってきた。同級生の本橋と大野を伴っていた。カウンターの席を借りて、同級生の飲み会が始まった。茂木寿司から、凪の大好きな蒸しアワビの甘ダレ寿司を石井が持ってきてくれた。これは季節限定のものなので、これを見た凪は躍り上がって喜んだ。
「凪くんの大好きな、だるまイカが入ってるわよ」
「ほんとですか、あれはおいしいですよね。やわらかくてふんわりしていて、のど越しがよくて。ぜひお願いします。楽しみだなあ」
凪にとってこの二つは大好物なので、盆と正月がいっぺんに来たような気持ちになった。
「そうだ、みどりがいま館山にいるらしいから、電話かけてみようか?」
「ああ、みどりちゃんもどこかに留学してたんだよね」
「そうそう、あいつは美術系だからスペインのバルセロナだよ。おまえにしてもそうだけど、よく留学するって決めたよね。俺は日本が一番・・」
「あれ?みどりの留学の話を聞いた時、石井も一緒にいきたかったんだろ?」
「大野! それを言うか?」
「石井、おまえみどりが好きだったもんなあ」
「お、本橋まで・・・」
「オー、ノー・・」
「あれ?いまのしゃれだったの?」
場が和んだ。どんなに時が流れても、幼なじみは何を言っても大丈夫だ。すべて理解してくれていて、話をうまく返してくれる。
石井は留学から一時帰国している同級生のみどりの電話番号を調べようと、財布からみどりの名刺を取り出した。そのとき、石井の財布から一枚の写真が落ちた。凪はそれを拾って石井に渡そうとしたときに、写真の若い女性を見て愕然とした。その女性こそ、英国で、凪の夢に現れてきたあの女性だった。写真を手に取って、しばらくの間、凪は金縛りにあったように動けずに写真の女性を見つめていた。
「石井、このひとは・・・」
「ああ、俺のじいさんの妹なんだ。おばさんが十七歳くらいの写真なんだけど」
「どうして石井が持ってるの?」
「命日が近いんで、じいさんから大きな写真にしてくれと頼まれているんだ」
石井は、凪から写真を取って財布にしまおうとした。
「もう一度みせてくれる?」
「いいけど、えっ? 何?」
写真の女性を見て、凪の胸は高鳴った。ドキドキして体の奥から何かが湧いてきた。
「へえ、十七歳?若い時に亡くなったの?」
「ああ、美人薄命って言うのかな、病気で亡くなったらしいよ」
凪の夢に出てきた女性だったということは、石井には言わなかったが、凪はこの女性に魅かれていた。時を超えて会えるものなら会いに行きたいと思っていた。凪は石井に写真を渡して、夢の女性の情報を得られたことに感謝した。
「ところで、石井はもう仕事は慣れた?」
「うん、まあな。でも人間関係はむずかしいよ」
「え、石井からそんな言葉を聞くことになるとはなあ。おまえはクラスのリーダー的な存在だったからなあ」
「本橋くんはどうなのよ」
「本橋はさあ、マラソンからスイミングから大会にはすべて出てるよ。そうそう、トライアスロンも出るんだよな」
「ああ、おれは親の後を継いだだけだから、問題なしよ。凪はどうすんの?」
「ふたりのようにまだ働いていない学生だから、何も言えないよ。大野は?」
「おれは漁師だぞ。ただそれだけさ」
「ところで、凪はあしたは暇か?赤山の見学会があるんだけど、付き合ってくれないか」
「赤山って、あの戦跡の赤山?」
「ああ、ガイドさんの話を聞いて、市役所職員も学ぶんだよ。見学の人数にキャンセルが出たから、かわりに参加してよ」
「石井の頼みじゃ断れないじゃん」
「お、宮仕えの俺を、まだリーダーとして扱ってくれるの?」
「うん、その代わりと言っちゃなんだけど、さっきの写真さあ、焼き増しして僕にくれないかなあ」
「ええ? 死んだおばさんだぜ、なんなのそれ?」
「運命っていうか、宿命っていうか・・・」
「おまえは、あほか」
「頼む、石井。一生のお願いだ」
「何だか知らないが、分かったよ。あした写真屋に行くから頼んどくよ」
凪はおかしいことを言ってるのは分かっているのだが、居てもたってもいられないような、おかしな高揚感が凪にそんな発言をさせている。恋というか、生き別れた家族に出会えたような、それはそれは不思議な感情の中にいた。
「はい、お待たせしました」
「わあ、久しぶりのだるまイカだあ。いただきます。やわらかいなあ、おいしいです」
「それはよかったわ。外国にはこんなおいしいものなかったでしょ」
「はい、日本はおいしいものだらけですよ」
「ところで、凪くんは留学してたんだって?どこに行ってたの」
「あ、英国のロンドンにあるハムステッドというところです」
「外国の彼女できた?」
「いえ、そこは奥手なので、でも友達はたくさん出来ましたよ」
「なんだよ、イギリスのかわいい娘を紹介してもらおうと思ってたのに」
「石井くんは、その前に英語習わなっきゃね」
「は~い」
「こんばんわあ」
石井の好きなみどりがやってきた。酒にほろ酔いの石井の眉毛が、さらに八の字に下がる瞬間だった。
「おお、みどり、元気だったか?」
「石井君も、相変わらず変わってなさそうね」
「あ、凪くんひさしぶりね。留学してたんだって? さっき電話で石井君に聞いたよ。どこに行ってたの?」
「ああ、英国のロンドン」
「ロンドン、ロンドン、愉快なロンドン、素敵なロンドン♪」
「おい石井、それって昔のCMじゃんか」
「もう、石井君ったらあ・・・」
「おっ、なっつかしいねえ。みどりの『石井君ったらあ』は高校以来じゃねえか?」
「そうだな」
「私も美大に行ってて、去年はスペインにいたのよ」
「え、知ってれば向こうで会いたかったね」
「そうね、凪くんなら石井君みたいに悪酔いしないしねえ」
「おいおい、君たち。世界をまたにかけたデートの話かい? ここは房総半島の南端にある小さな館山だぞ」
「石井君ったら、もう酔ってるの?」
「藤子さん、カラオケ、カラオケ・・・」
「はいはい、何入れる?」
「石井の好きな『旅立ちの日に』ね」
「ああ、卒業式の日も石井はこれを歌って泣いてたなあ」
♪ 白い光のな~かに~ 山並みは萌えて~
歌いながら、同級生に囲まれた石井は大泣きをした。役所勤めの辛さはこの石井にもあるんだなあと、みんな石井の歌を聞きながら、それぞれの道に進んだ人生を見つめて、小さく乾杯をした。この夜は、日本に帰ってきたことを感じさせてくれる楽しい夜になった。同級生5人でカラオケを歌い、午前1時を回ってお開きとなり、帰宅した。石井からは翌日の赤山見学会で会うことをしつこく言われていた。ひとつ心配だったのは、かなり酔っていた石井がみどりを家まで無事に送っていったかだ。千鳥足の石井は逆にみどりに送られたのかもしれないと、帰り道が同じだった本橋と話していた。