聖書と仏教の意味するところ82

聖書の使徒行伝第19章
(パウロは)ある弟子たちに出会って、彼らに「あなたがたは、信
仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ
、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答え
た。「では、誰の名によってバブテスマを受けたのか」と彼がきく
と、彼らは「ヨハネの名によるバブテスマを受けました」と答えた
。そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔い改めのバブテスマを授
けたが、それによって、自分のあとに来る方、すなわち、イエスを
信じるように、人々に勧めたのである」。人々はこれを聞いて、主
イエスの名によるバブテスマを受けた。そして、パウロが彼らの上
に手をおくと、聖霊が彼らに下り、それから彼らは異言を語ったり
、預言をしたりしたしだした。その人たちはみんなで十二人ほどで
あった。

... コメント
仏教の密教にも、潅頂という儀式があって、バブテスマのように信
仰者の意識に、直接悟りの意識を注入する方法があります。わたし
はコピーみたいなものだと思っているのですが、洗脳といわれるこ
ともありそうです。
 わたしが思いますに、意識の注入は、まだ本物ではないのですね
。これは、聖霊や主なる神様や宇宙自然の法則を、ある意識状態に
おいて、少しあるいは部分的に、体験したにすぎないのですね。総
合的な悟りの体験とは違いますね。だから、意識の方向が定まって
、進化の役には立ちますが、その価値観だけで、進んで行くのは、
危ないと私は思います。
 お経の中で、お釈迦様も感化する時に、感化される人に色々な霊
的現象を、お見せになったようです。そんな記述があります。しか
し、その後、熱心に修行して、総合的な解脱や悟りを体得するよう
におっしゃられています。もともと、悟りとは総合的なものなので
す。
聖書にも同じような布教があるのですね。

(余談ですが、深層意識とは、結構厄介なもので、ある事柄を体験
すると、そう思いこんでしまうのですね。範囲が狭くなるのですね
。一理を通して理の全体を見失うことが、まま、あります。一理と
理の全体をうまく調和させることが必要ですね。勘違いをしてる人
は、ここが上手く出来ないのですね。これもエゴですね。滅びます
ね。ここは言葉では説明できないところなので、バブテスマや潅頂
が必要になるのですが、未熟な勘違いをする人は多いですね。)