聖書と仏教の意味するところ75

聖書の詩篇第19章
もろもろの天は神の栄光をあらわし、
大空はみ手のわざをしめす。
... この日は言葉をかの日につたえ、
この夜は知識をかの夜につげる。
話すことなく、語ることなく、
その声も聞こえないのに、
その響きは全地にあまねく、
その言葉は世界のはてにまでおよぶ。
神は日のために幕屋を天に設けられた。
日は花婿がその祝いのへやから出てくるように、
また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。
それは天のはてからのぼって、
天のはてまで、めぐって行く。
その暖まりをこうむらないものはない。
主のおきては完全であって、魂を生き返らせ、
主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。
主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、
主の戒めはまじりなくて、目を明らかにする。
主を恐れる道は清らかで、
とこしえに絶えることがなく、
主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。

コメント
私は、色々な表現はあるでしょうが、まさに人間の魂の進化・浄化
・信仰とはこれに尽きるのかもしれないと思う。
仏教でも、お釈迦様は、修行時代に、(全ての)能力を高め、苦を
滅して平安を知る道を求めておられました。そして、菩提樹の木の
下で瞑想に入られました。求めていた道を歩む方法を見つけられた
のですね。
やがて、菩提樹の木の下で、お悟りを開かれた訳ですが、最高度に
進化されたのでしょうね。
イエス様も、人間の中で、初めて生き返った者と聖書に記されてい
ます。復活ですね。
お釈迦様もイエス様も、主なる神様や宇宙自然の法則を体感して、
清められ、進化されたのでしょうね。
聖書のこの言葉は、それらをよく表していますね。

(余談ですが、信仰とは盲目になることではないのですね。また、
打算でもないのですね。清まり進化する方向へ舵をきることなんで
すね。)