聖書と仏教の意味するところ73

聖書のマタイによる福音書第23章
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいであ
る。杯と皿との外側は清めるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている
。盲目なパリサイ人たちよ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そ
うすれば、外側も清くなるであろう。

... コメント
精神が透明純粋である事は、重要ですね。
仏教でも、掃除をして、外側だけではなく内側の精神も掃除して、
清まりなさいと教えられます。神道でも祝詞の中で精神が清まるこ
とを重要視しています。
精神が清まって行くということは、主観的には透明になって行くと
いうことかもしれませんね。その透明になって行った精神エネルギ
ーの部分が、愛に変わるのでしょうね。永遠の愛ですね。正しい愛
ですね。そこが増えて行くと、現世でも良き愛に巡り合うのかもし
れませんね。ただその時は、もう、愛に、それなりに満足をしいて
、愛を求めていないかもしれませんけどね。清まることは大切です
ね。
聖書はこのことも言っているのでしょうね。

(余談ですが、美容の事で、「内側から奇麗になりましょう」とい
う、言葉を聞きますが、私は、この言葉を内側の精神を清めること
だと受け取っていました。でも、違うんですね。身体の内臓をよく
する、みたいな話なんですね。でも、そういう方々も、これからは
精神を清めることも、目的の一つにされると、奇麗になって、愛も
永遠の愛も、手に入れることが出来るようになるかもしれませんね
。時間がかかりますけどね。その間に年寄りになってしまうかもし
れませんけどね。
ただ、清まることは人生の目的でもありますからね。本当の価値の
あるところでしょう。)