聖書と仏教の意味するところ66

聖書のマタイによる福音書第13章
(イエスは)
またほかの譬(たとえ)を彼らに語られた、「天国は、パンの種の
ようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全
体がふくらんでくる」。
...  イエスはこれらのことをすべて、譬で群衆に語られた。譬によら
ないでは何事も彼らに語られなかった。
これは預言者によって言われたことが、成就するためである、
「わたしは口を開いて譬をかたり、
世の初めから隠されていることを語りだそう」。

コメント
仏教でも、密教の弘法大師様(空海)は、「方便をもって説法をし
なさい」と教えられています。方便とは、別な言い方をすると「譬
(たとえ)」ですね。聖者の話や、説法を聞いて、感じたり考えた
りするところに、理解のためのミソがあるのですね。進化があるの
ですね。それは、全体的把握と現実がリンクするところなのでしょ
うね。これを調和と言ったりもしますね。しかし、意識が純粋でな
いと、勘違いやへ理屈を産む原因にもなりやすいのが現状ですね。
世の初めからあるものは、その初めであるのだから、そのゆえに天
国には、へ理屈が通用しないことを知らなければならないのでしょ
うね。
聖書はこのことも言っているのでしょうね。

(余談ですが、世の初めから隠されていることを、説いているのが
密教なんですね。でも、密教は方便で説法をされるのです。やっぱ
り、ジレンマがありますね。世の初めから隠されていることは、頭
で理解するのは難しいですよね。でも、真面目にやっていると、あ
る時、インスプレーションで、解るんですね。
私が押し並べて考えますに、人間は失敗をして、苦しんでやり直す
しかないのかもしれないと思いますね。でも、そのやりなおしの時
に際して、手遅れということもあるので気をつけて、勇気をもって
進まなければいけないのかもしれませんね。色々ありますね。)