聖書と仏教の意味するところ65

聖書のヨブ記第28章
それでは知恵はどこから来るか。
悟りのある所はどこか。
... これはすべての生き物の目に隠され、
空の鳥にも隠されている。
滅びも死も言う、
『われわれはそのうわさを耳に聞いただけだ』。
神はこれに至る道を悟っておられる、
彼はそのある所を知っておられる。
彼は地の果てまでもみそなわし、天が下を見きわめられるからだ。
彼が風に重さを与え、
水をますで量られたとき、
彼が雨のために規定を設け、
雷のひらめきのために道を設けられたとき、
彼は知恵を見て、これをあらわし、
これを確かめ、これをきわめられた。
そして人に言われた、
『見よ、主を恐れることは知恵である、
悪を離れることは悟りである』と」。

コメント
すべてを知ることを、「悟りである」と、言うのなら、知らないこ
ととがあるということを知るのも「悟り」かもしれませんね。しか
し、それは分からないということではないと、わたしは思います。
もうこれ以上は考えても、これ以上はない、ということだと思いま
す。考えても、それは無限の堂々巡りに入るのかもしれません。(
そこから、一つ飛躍するのかもしれませんけどね。)
仏教でも、お釈迦様は、思考を因果の理法によってめぐらされ「悟
り」に至られた事実があります。そのときお釈迦様は、もうこれ以
上の思考過程なない、と明らかに(考え)感得されました。正しい
知恵とはそういうものなのでしょうね。
「完全」を感得して、悟り、それでもなお、「主を恐れること」、
つまり、心の底からの「謙虚」さを見失わないで存在することが、
できるようになるのでしょうね。そして、現世の善と悪の感得識別
ができて、当たり前のように悪を離れることができるようになるの
でしょうね。
聖書はこのことを諭しているのでしょうね。

(余談ですが、これから先の世の中では、悪が滅ぶか、悪を離れる
かして、利益という価値観が、今までの感覚とは変わってくるのか
もしれませんね。計算しなくても、自然に利益に繋がっていくよう
な行動パターンを、人類は身ににつけるようになるのかも知れませ
んね。それは、法則に支えられた自然で善なものなのでしょうね。
ゆるくはないでしょうけど、いい甘さでしょうね。)