聖書と仏教の意味するところ63

聖書のエゼキエル書第14章
主なる神はこう言われる、わたしが人と獣とを地から断つために、
つるぎと、ききんと、悪しき獣と、疫病とのきびしい罰をエルサレ
ムに送る時はどうであろうか。しかし、もしそれがあなたがたに来
るとき、むすこ娘たちを助け出す者が、その中に残っていて、あな
たがたがその行いと、わざを見るならば、わたしがエルサレムの上
に与えたすべての災いについて慰められるであろう。すなわち、あ
なた方が、その行いと、わざとを見る時、彼らはあなた方を慰め、
あなたがたはわたしがこれを行った事は、すべてゆえなくしたので
はないことを知るようになると、主なる神は言われる」。

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主なる神様や宇宙自然の法則によって救われていくということは、
突き詰めれば、その個人が主なる神様や法則にどれだけ反応してい
るかということなのでしょうね。
仏教でも、このことは再三説明されて説かれています。仏教では、
実相とか菩提心に行き着いて、その実相や菩提心と一体となり、や
がて、主なる神様や宇宙自然の法則に、人は、よく反応するように
なるのですね。これが本当に「生きている」ことなんですね。
心が、生きているからこそ、災いの中でも、慰められた時、因果の
道理が分かってくるのかもしれませんね。これがどういう縁なのか
、ゆえなのかが、分かってくるのかもしれませんね。
聖書はこのことも言っているのでしょうね。

(余談ですが、どういうゆえなのか、ということに気付くためには
、主なる神様や法則や実相の中で、もう一段階、人の脳の神経系が
柔軟にならないと気付けないんですね。ここが大変なんですね。そ
して、運良く気づいても、それをずる賢く利用するようだと、本末
転倒するのですね。勘違いよりもたちが悪いのですね。)