聖書と仏教の意味するところ63

聖書のイザヤ書第32章
見よ、ひとりの王が
正義をもって総て治め、
... 君たちは公平をもってつかさどり、
おのおの風をさける所、
暴風雨をのがれる所のようになり、
かわいた所のにある水の流れのように、
疲れた地にある大きな岩の陰のようになる。
こうして、見る者の目は開かれ、
聞く者の耳はよく聞き、
短気な者の心は悟る知識を得、
どもりの舌はたやすく、
あざやかに悟ることができる。

コメント
聖書を読んでいると、その時代の人たちは、災いがあって初めて、
主なる神様や宇宙自然の法則や道理を知るのかもしれない、と私は
思う。
その時代時代で、何が善か悪かも分からないままに、人々はいつも
主なる神様の目から見て、悪を行っているようですね。
仏教でも、お釈迦様は、弟子を天眼で見られて、宇宙自然の法則や
道理にかなうことを、良しとされています。宇宙自然の法則や道理
は、人間の魂や肉体が変化し進化するためにあるからでしょうね。
当然、人の能力も向上してきますね。
そういうことを含めて、本当の正義があるのでしょうね。本当の公
平があるのでしょうね。
災いがあって救いがあっての世の中ですが、その時代として、興味
深いところですね。
聖書はこのことも言っているのでしょうね。

(余談ですが、自然、自然と言っておりますと、地球のまんまの自
然がいいように聞こえますが、地球の自然を超える宇宙があり、そ
して、物質的宇宙を越えた根本的な法則があるんですね。人間の能
力が向上してきたら、その法則を体感的に知るようになるのだと思
いますね。霊能力もそのためにあると言えるかもしれませんね。も
ちろん、物理科学もその一端をになっているのでしょうね。今の時
代は、科学が主流で多くの勘違いも生んでいますけどね。)