聖書と仏教の意味するところ36

聖書のエレミヤ書第48章
主は言われる、モアブに住む者よ、
恐れと、穴と、わなとがあなたに臨んでいる。恐れをさけて逃げる
者は穴におちいり、穴をよじよじ上がって出る者は、そのわなに捕
えられる。わたしがモアブに、その罰せられる年に、
... これらのものを臨ませるからであると、
主は言われる。
・・・中略・・・
しかし末の日にわたしは再びモアブを栄えさせると
主は言われる」。
ここまではモアブのさばきの事をいったのである。

コメント
仏教には、「業」という考え方がありますが、国単位であろうと個
人単位であろうと、いいことも悪いことも、みんな出つくすんでし
ょうね。
宇宙自然の法則の上に乗っ取った愛のある行動が肝要ですね。
それでも最後には、滅びと救いがあるということでしょうね。法則
はなくならないですから、善き者は救われて行くのでしょうね。
聖書はこの事を言っているのでしょうね。

(余談ですが、法則を知らないで、自分を善きものと考えるのは、
勘違いかヘリ理屈ですね。気をつけましょう。これは私見ですが、
2012からは同じ言葉でも、そのエネルギー成分によって、明ら
かに違いが出てくるように、わたしは思います。世の中の人が、分
かりやすくはなりますが、なぜかまだ、もやもやざらざらと重いも
のが残るようにも思います。)