聖書と仏教の意味するところ20

聖書のイザヤ書第48章
あなたのあがない主、イスラエルの聖者、主はこ言うわれる、
「わたしはあなたの神、主である。
... わたしはあなたの利益のため、あなたを教え、あなたを導いて、そ
の行くべき道に行かせる。どうか、あなたはわたしの戒めに聞き従
うように。
そうすれば、あなたの平安は川のように、
あなたの義は、海の波のようになり、
あなたのすえは砂のように、
あなたの子孫は砂粒のようになって、
その名はわが前から断たれることなく、
滅ぼされることはない」。

コメント
仏教にも、不退転という言葉があります。ただ生命の進化の方向に
、気の自然の流れのまま(自動的に)進んで行く状態でもあります
。決意はいりません。心が明らかにその方が、いいと思っているか
らです。聖書もこの事を言っているのでしょうね。

(余談ですが、ここで利益というのは、天国や、生命の進化の方向
についてのことです。物質的利益の意味は、少ないですね。
あと、「砂ようになって」というのは、「砂」になるのではなくて
、砂の数ほどということで、仏教では、お釈迦様が、「ガンジスの
砂の数ような仏」と表現さています。
これは、生命エネルギーである、プラナのことですね。実相に一番
近いところです。砂粒のようにも見えるんですよ。
勘違いされませんように。)