聖書と仏教の意味するところ19

聖書のローマ人への手紙第15章
キリストさえ、御自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ「
あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」と書いてあ
るとおりであった。
これまで書かれた事がらは、すべてわたしたちの教えのために書か
れたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望み
をいだかせるためである。どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたが
たに、キリスト・イエスにならって互いに同じ思いをいだかせ、心
を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父
なる神をあがめさせて下さるように。
...
コメント
仏教にも、仏教徒が精進するための教えの中に、六波羅蜜というの
があって、その六波羅蜜の中に、忍辱(にんにく)という忍耐があ
ります。
ならぬ堪忍するが堪忍といいますが、法則やキリストの御名におい
て忍耐や慰めがあるのですね。
(余談ですが、仏教でもお清めや御祈祷をすると、厄を受けたりす
る時があります。結構、つらい時もあります。ただ、人の業を基本
的には変わることはできませんので、自然宇宙の法則のもと、ひた
すら清めるだけですね。しかし、いくら清めても勘違いをしてのさ
ばる人は、いますね。キリスト教にもそういう人のことが書いてあ
りますが、救われる望みがないのかも知れませんね。望みとは「天
国へ救われて行くこと」ですからね。勘違いをなされませんように
。)