聖書と仏教の意味するところ18

聖書の使徒行伝第21章
その時パウロは答えた、「あなたがたは、泣いたり、わたしの心を
くじいたりして、いったい、どうしようとするのか。わたしは、主
イエスの名のためなら、エルサレムでしばられるだけではなく、死
ぬことをも覚悟しているのだ」。
こうして、パウロが勧告を聞きいれてくれないので、わたしたちは
「主のみこころが行われますように」と言っただけで、それ以上、
何も言わなかった。
...
コメント
仏教でも、お釈迦様がお悟りになる前に、6年間の苦行をされたと
き、最後に、死ぬ寸前か、一時的な死まで行かれたようです。
村の娘スジャータが暖かい山羊か牛かの乳をお釈迦様に与えたので
、お釈迦様は体力と取り戻されたと書かれています。
それから、お釈迦様は、苦行を捨て、瞑想ということを知り、「死
ぬまで動かん」と決心をされ、菩提樹の木の下でお悟りを開かれま
した。
聖書のパウロも死を覚悟していたようですが、生を知り、死を知り
、法則を身をもって知ることが肝要なんですね。
(余談ですが、人はそれぞれに生・死・法則などの知り方があるよ
うですね。生死を知るために、臨死体験をすると言う人もいるでし
ょうね。色々ですね。しかし正しい悟りに入るのは、これ(生と死
を知る)だけではなかなか難しいのかもしれませんね。生死を垣間
見ている霊能者でも、正しく物を見ると言うのはなかなか難しいの
かもしれません。正しく行動するのもね。まして、煩悩にまみれた
凡夫の人間ではなかなか理解できないでしょうね。法則が有るか無
いかが重要なんですね。でも、法則が解ってない人が多いから・・
・複雑になるのですね。)