聖書と仏教の意味するとろ

聖書のマタイによる福音書
狭い門から入れ。ほろびに至る門は大きく、その道は広い。そして
、そこから入って行く者が多い。命に至る門は狭く、その道は細い
。そして、それを見出す者が少ない。
・・・中略・・・
... わたしにむかって『主よ、主よ』という者が、みな天国に入るので
はなく、ただ、天にいますわが父の御胸を行う者だけが、入るので
ある。

コメント、
仏教にも、浄土真宗さんの教えの中に、「二河白道の絵」というの
があります。
前方の彼岸の岸で阿弥陀さんが呼んであられるのですが、そこへ行
く細い道は細く。両側から煩悩の火が攻めてきます。なかなか大変
なのかもしれません。でも、信じて声を頼りに歩くと意外にその細
い道を歩けたりするのですね。人、ひとりが通れれば充分なのです
から。
聖書にも同じようなことが書いてありますね。

(これは、余談ですが、人生でも最後の決断は、人はぎりぎりのと
ころを歩いている時が多いのかもしれませんね。その最後の決断が
、主なる神(聖書では父の御胸)や阿弥陀様、宇宙自然の法則の意
図するところか、どうかが、問われるのでしょうね。人間の煩悩や
策略とは違いますね。)