魂の世界で、正しく老いると言うことは、生命の経験が増して、永遠の命が心の空間に増していくと言うことであり、死とは、命をまっとうしながら、永遠の大生命に目覚めることでもあると思う。

 キリストは、捕まる前に、神の御心が行われますようにと祈り、十字架に架けられたのちに、復活されて、天国に入り、人格のある神になられた。私は、大いなるものの慈愛がそこに流れているよに感じる。

 釈迦は、全てを悟って、自分の肉体の死に際した時、「この世は美しい、生命は甘美なものだ」と言われながら、、涅槃に入り、人格のある仏になられた。大生命の慈愛に感謝されたのだと思う。

 人生の一時期に、単(たん)を知って、それでも、生けるものが慈愛を知る時、涅槃への道が分かってくるのかも知れない。

 実は、「永遠の命」という言葉も、この世のことなのだ。

 大縁経の中で、お釈迦様は、弟子のアーナンダに説かれている。

「アーナンダよ、命名がある限り、命名の道がある限り、言葉によるせつめいがある限り、言葉による表示がある限り、智慧がある限り、智慧の活動領域がある限り、輪廻がある限り、輪廻流転する限り、(悟った)比丘はそれらを知り尽くして解脱しているのである。」と。

 無も空も生命も宇宙引力も慈愛の感覚の中に溶けて行くのだろう。・・・つづく。