朝、私は早めに起きて、高野山に向かう。

 高野山の奥の院には、何千基もの、墓石があって、その間を通り抜けて行くと、弘法大師の御廟がある。空気が霊領としている。私は、石畳の側の巨木に手を触れてみた。この木も、人の一生よりも長くここいいて、お大師様と共に、人々を見守り続けている。お大師様の真心が、この山に千二百年以上も続いている。

 戦国時代の武将たちも時代の中を戦い抜いて、当り前のように、この山に墓を建てている。

 私が、長い長い歴史的な時間を吟味しながら、弘法大師の御廟に着くと、そこには、お線香の白い煙が漂っていて、かぐわしい香りがしている。さらに、燈明の明かりが、現世の縁(ふち)に輝きながら、人々の行く道を照らしている。

 私は、御廟の前に静かに座った。

 人間には、のがれてものがれられない時がある。踏みとどまろうとしても、流されてしまうこともある。人生の幸と不幸と様々な苦悩と道がある。

 多くの人々は、共通の幸せや愛を求めているのだから、そのカギになるところのまっ透明な永遠の命の成長を求めて欲しいと思う。昔から、一部の人たちは、永遠の命の自動的な導きの力で、未来(後生・来世)の幸せに羽ばたいている。この動きが、他力であったり、自力であったり、功徳につながるような自利利他であったり、阿弥陀如来の本誓であってり、形のない神の意志であったり、慈愛であったり、空であったりするのだろう。・・・つづく。