恵比寿神天尊さんとの話の途中で、思考波が混線してしまい、夢の場面が変わって、私の受け入れがたい話が出てきた。私は、黙って迷っていたら、恵比寿神天尊さんからのその後の話はなく、目が覚めた。
昨日、泊まった宿の古びた部屋だった。肉体の私には、息苦し感じがあった。それに、私の霊体の下腹部の中心に固い芯みたいな緊張感を感じている。
『恵比寿神天尊さんかぁ~。なんでなんだろう?。・・・それにしても、私は、まだ生きているんだぁ~。』
戸惑いながら、「ふ~っ。」と、ため息をついて、トイレに行った。
私は、部屋に帰ってきて、布団の上に座り込んで考える。
夢の中の浄土?のどこかの場所は、無限感があって懐かしいものだった。昨日の朝の瞑想で、空中の空中ポケットみたいな全く違う感覚の何かは、この夢の神の世界のことだったのだろうか?。ただの夢では、ないように思う。お経には、本当の浄土も、仮の浄土も、方便としての浄土も説明されている。
今朝の夢は、期せずして、宇宙の話から始まっていた。古代インドの(心の空間の)宇宙感では、一世界という見方があって、スメール山(須弥山)を、中心として、九山八海があり、さらに四方に四洲があり、これに日・月などを合わせて、一世界としたらしい。一世界を千個あわせたものを小千世界、小千世界を千個あわせたものを中千世界、中千世界を千個あわせたものを大千世界という。この大千世界は三千世界とも呼ばれていた。この形態は現世宇宙の銀河の構造に似ていると私は思う。ある本によると、千は無限の数を表すという。
だから、今朝の夢のように、宇宙の無限感から始まる夢は、永遠性に通じてると思うので、それは普遍的基盤がある訳だから、ただの夢だとは私は思えない。・・・つづく。