この時、私は、自分の心の空間で、宇宙の始めからの出来事を、特に、永遠を基準に感得していて、自分の今までの修行人生の行いは、正当性があると確信を思っていた。しかしそれでも、自分の修行人生での理不尽なことを考えると、恵比寿神天尊さんに、聞いてみたくなった。私は、

「この現状は、私の罪なのでしょうか。?」と言うと、恵比寿神天尊さんは、私の心を知っていて、今更と思われながら、

「もう、分かっているだろう。」と答えられた。私は、

『私の罪でないなら、業に時効はないのだから、いいかぁ。』と思った。でも、よく考えると、人間の現世は、そんなに甘くないとも思う。それで、私は、黙った。恵比寿神様との話は、もっとあったように思う。

 ちなみに、これは、八十八か所のお参りが終わって、十年たって分かったことだが、私は、2008年の一月一日に、天国の扉が閉まったと感じた。始めは、何の事だか分らなかったし、その年の私の運勢かとも思った。が、永遠の命を知っているものに、その様なことは、道理にもとるので当てはまらないと考えた。

 それで、調べてみたら、聖書のヨハネの黙示録の第十五章の終りから、第十六章が、それにあたるのではないかと、私は思うようになった。もちろん、まだ、どうせ、俺のことだから、明け方の寝ぼけた時だし、だれも逆らえないような凄いエネルギーではあったが、妄想の可能性もあると思っていた。ところが、その年は、世界的な瞑想の先生(マハリシ)が、亡くなられるし、(ちなみに、彼は自分が彼の世に旅立つのは、その言動から分かっていたみたいだ)、四川の大地震はあるし、日本でも四川のすぐ後に大きな地震があるし、リーマンショックはあるし、・・・一年かけて、私が、あれれ?、と思うのも、仕方ないだろうと思う。

 2008年一月一日までは、可能性の場があったのだが、それからは、永遠の命の場(自由だけど絶対の場)が、現れ始めて、可能性の場の汚れ(理不尽)を昇華していくのだろうと思う。そして、新しい、全く新しい世界が来るのだろうと思う。・・・(ただ、私のことだから、当たってるかどうかは分からない。でも書く。)・・・つづく。