例えば、「業の法則」の話をすると、業を価値観として、自分を暗くし、人をさげすむ様な話になりやすい。「業」の話は、現状を受け入れるためには、必要かもしれないが、ただ、人間にとって、「業」という宿命よりも、普遍的基盤の振動を生きて、その後、宿命に従う方が、心の空間にとっは、はるかに幸せ感があり、大切なことなのだ。

 また、永遠の大生命の振動が、心の空間で喜びだと説明すると、逆説的に「喜び」が全て生命だと勘違いする。しかし、逆説は、「無」になるだけだろう。実は、その「無(超越)」も、経過の中の一時的出来事であることが多い。大切なのは、永遠、つまり、始めであり終わりであるものとの喜びだ。

 今も昔も良くも悪くも社会は社会だから、その社会を横目で見ながら、邪見に落ちない様にしないと、本当の天部も天国も涅槃も見えてこないだろうね。私は、心の空間で永遠の命の透明感を目指そうと思う。

 私が、そんな徒然なる日記を書いていたら、ご詠歌を終えた霊伝さんが、テント暮らしの私のところに来て、一言、

「優雅なもんだなぁー。」と、こそばゆいことを言う。私は、

「そうかなぁー。」と、手を泊めて、食べ物などのたわいもない話をする。しばらくして、彼は、自分の寝袋のところに帰って行った。私は「テントで一緒に寝る?」と聞いたが、一人用のテントは狭いので、彼は遠慮をしたみたいだった。

 間もなく、霊伝さんは、本堂が倒れそうなくらいの大きなイビキをかいていた。私のところからは、五メートル位離れているのだが、本堂に良く響いていた。

 朴訥と豪快は同じことかぁー?。本堂が倒れたらどうするんだ。あまりのうるささに私は、寝袋の中でもがいていた。

「坊さんが唱えればイビキもお経かぁー?。」

「そりゃぁ、邪見じゃ。」

どうでもいいが、頼む寝させてくれ。・・・つづく。