根来寺を出て、みかん畑を通り過ぎ、夕方になるまで歩いて、
第八十三番一宮寺(本尊・聖観世音菩薩・おん あろりきゃ そわか)大師堂(南無大師遍照金剛)をお参りした。
そこには、死霊に詳しくて太っちょの霊伝さんが、先に来ていた。彼は、寺の事務所で許可を受けて、本堂の縁側で野宿すると言っている。私も、許可を受けて、大師堂の軒先にテントを張らせてもらうことにした。
日が暮れて、私がテントの中で、ローソクに火をつけ、日記を書いていると、本堂の前で、霊伝さんが、ご詠歌を朴訥と唱えて、あたりに響かせていた。
その声の響きを聴きながら、私は、僧侶が仏様と呼んでいるところの本質、つまり、全体的慈愛(慈悲)は、まっ透明な永遠の大生命の振動であり、宇宙自然の摂理の上昇成分だと思った。涅槃に至る道だと思う。
しかし、その慈愛の一部が、創造性の仕組みを通って、人の心の空間で明らかになってくると、その慈愛の魅力によって、形成作用を生じ、主義とか価値観に変えられてしまうことがある。創造された物質も形成作用の産物だろうけど、言葉や文章も、それにあたると思う。人の心には、そういう癖があるのだ。
私は『難しいなぁー。』と感じる。主義や価値観や愛情やニュワンスは、心の中でその一部だけが、固まってしまうと、バランスを崩し、不利益を増す。悲しみを増す。これは、自然の摂理の下降成分となる。
いつの時代もそうだけど、価値観や主義で固められたその社会の中で、正確な現状を把握することはかなり難しく、人の心が価値観や主義なしに判断するのはかなり難しいと思う。
結局、私は、ご詠歌の響きを聴きながら、心の空間で感得する慈愛の振動の上昇成分を頼りにするしかないと思う。・・・つづく。