だから、会社勤めをしていたころの私のように、精神的に、半分ほど、無知のまんま、何とか生きて、永遠の命の振動の幸せ感を知らないで暮らしているような方々は、昔からの賢者の教えを参考にすればよい、と思う。
たとえば、科学を辛抱し、無知なところの残されてる無神論者は、その理論の上で、まっ透明な(永遠の)命を正確に感じるように努力すればいい。感動があり、神を知るようになるでしょう。
また、煩悩に惑わされて、ご都合主義者になって、道理から外れたところのあるものは、(器の大きい)仏教の教え学んで行法を行じればいい。大難も小難で過ぎて行き、苦悩が減るでしょう。
次に、迷っていることに気づかないで、嘆きと愚痴が多くなり、自惚れたところのある者は、(答えのない)ユダヤ教の教えを悟ろうとすればいい。心のゆがみが平らになるでしょう。
さらに、業が深くて、愛を欲しがっていることを勝手に正当化したり、他の人に謂れのない犠牲を強いている者は、(痛みの姿と愛の)キリスト教を自分に当てはめてよく考えればいい。心の隙間が埋まり気持ちがおさまって行くでしょう。
そして、教えの理解が不十分で、中途半端な正義と愛情を振りかざして、どこかグダグダと横着なところのある者は、(肉体に正しい気の流れを作る)イスラム教の教えを守ればいい。肉体が生理的に整えられて、半端なところがいつか正されるでしょう。
最後に、現世利益を欲望レベルで目的として、執着の強いところのある者は、(廻り道の多いい)多神教のそれぞれの教えをあちこちで学べばいい。ひねくれなければ、芋の子を洗うように少しづつ綺麗になって行くことでしょう。
何とか、永遠の命の振動の至福に正しく気づいて欲しいと思う。
この世では、全体、生きて行く上で、ある人たちは、精神を病んだり、肉体を病んだりすることがあるだろう。(いいとは言えないが)そんな自分が、壊れる前(死ぬ前)に、孤独の中で、その窮地を正しい気の流れのままに、やり過ごした人間だけが、分かることもあると、私は思う。
加えて、押し並べて各宗教の異差について説明すると、私は、宗教の教えの形態と本質について、例えば、水の性質に似ていると思う。空の雲も水、川の水も水、地の霜柱も水、それぞれの場所と条件が違うと、宗教も水も形態と反応が違うようだと考えている。・・・つづく。