そんな心の中の精神性で「メシ」が食えるのか、と言う人たちがいるが、手を曲げるにしても足を上げるにしても、心がその様に動かなければ、手も足も動かない。その心の動きを支えているものが、煩悩ではなくて、永遠の命であれば、生きることができるんだと思う。永遠の命の振動が心に幸せ感を生みだすので、理にかなったエネルギーが流れ始め、生死を越えた正しい動きが増えてくるのだと思える。智慧とか勇気とか先見の明とか洞察力とか、色々と出てくるのだと思う。
果を得るためには、絵に描いた(価値観的)道徳ではなくて、この永遠の命の振動からの至福を、理解する必要があると思う。そして、それによる行動は、通常の場合、道徳的に見えることが多いい。
さらに、ヨーガの教えでは、魂が、幽界の天国の部類に属していて幸せならば、食べるための心配から、ほとんど解放されているらしい。また、幽界よりも、さらに高い境地の観念界では、魂たちが、完全に近いような形で解脱しているので、至福のマナ以外には何も食べない、と書いてある。
マナと言えば、旧約聖書の出エジプト記第十六章にも、神のパンとして、マナが記載されている。それは白い蜂蜜入りの煎餅のようなもので、古代イスラエルの人たちは、四十年の間、毎朝をマナを拾いにゆき、そのマナを食べたと、記載されている。食べ物にも色々あるのだと思う。
さらに、・・・・つづく。