無数の小さな光のプラナエネルギーが、流れ星のように、現れては消えて行く様子を見ていると、プラナとは、まっ透明な永遠の命が、ある期間だけ個別化して、個性を持ち、そののちに、再び無個性になり、次の因(種)になっているようなものかも知れない。

 ちなみに、古代ギリシャ哲学のアトムという言葉を使うのなら、アトムはプラナとは違って、プラナよりもっと原初的な(深い)ところに壁のように振動しながら存在しているように見える。

 あと、よく「人が死んだら天の星になる」と言ったりするが、その場合の天の星というのは、プラナの光の粒かも知れない、な、と私は思った。プラナは、一面の星の瞬きのように見える時がある。

 いずれにしても、空気?、アトム?、プラナ?、永遠の命?、は、普遍的に安らかに振動している訳で、そう考えると、人間は、その普遍的な安らかな振動を、感じることのできる訳だから、物質的状態に左右されずに、安らかな幸せの状態でいることができるのだと思う。多くの聖者が一人で山に入る訳が分かるような気がする。

 生命という意識の上では、ものがあるから幸せとか、ないからそれを得た時に幸せなんだとかは、直接的な幸せ感を知るには、あまり関係がないと思う。というか、そもそも、生命という意識の上では、心が幸せを認識する方法が根本から違うのだと思う。めちゃくちゃでざっくり言うと「生きてるだけで丸儲け」と言う言葉が当てはまるのかもな・・・?。

 ただ,それでも、食べなければ生きていけないという、現実的な物質主義発想もある。しかし、幸せいっぱいで、何も食べられないという、心の真実的現実もある。さらに、押し並べて、この辺の仕組みは、人間が決めたものではない。

 とどのつまり、永遠の生命の振動の自動性(自動性)が、そこ(底)にあり、それを信じて生きて行けば、それはそれで幸せなんだと思う。

 このことは、現世を生活していく上で、どうしても体験して、意識して知らなければいけないことだと、私は思う。気づいていた方が、物資的現世を自身の普遍的主観で生きやすいと思う。人に理解されなくても、生きやすさ丸儲けになると思う。それでも、業と、因果と、命のルールはあるのだが、結局のところ、自身の心の空間の中でプラスに変るのだと思う。・・つづく。