(何か言葉が足らなくて、かっこの部分を付け加えました。個別的な表現にならない様に気をつけているのですが、難しいですね。この世の仕組みだから、現実に当てはまる人が多いいのです。よろしく候)
とどのつまりは、本来、まっ透明な永遠の命の流れを、自分の心の中で、知らないうちに汚していると言う事なのだろう。これも無知と言える。(その社会に洗脳されている人たちも多い。)
大なり小なりみんなそうなんだから、慈愛も正義も曇るのが当たり前かもしれないでしょうよ。
少し前に、若い人の間で、「アンニュイ」、と言う言葉が流行ったけど、「私、(感情が)曇ってる」って、言いたかっんだろうね。
やっかいなのは、意識の曇りの中で、何かの切り口を武器に、(自分にも他人にも)無知を増してしまうことだと思う。自分が何を知っていて、(おもに自分の目に見えないところで)何をしているのか、気づけないのが問題なのだ。
しかしそれでも、(ありがたいことに)まっ透明な永遠の命は汚れることを知らないで、雲の水滴の間の空気のように、全体をとうして流れてくれるので、救いが、まだあると思う。意識が曇ったら、解決しようとする前に、(心の空間の永遠の命と言う)綺麗なものを見ようとすればいい。永遠の命からの法則が消えることはないのだから、そこに救いがある。(もし、法則がなければこの宇宙は成り立たない。)
(心の空間の)綺麗なものに意識をおいた時、注意しなければいけないのは、綺麗な法則やパワースポットによって、エネルギーがふえたとしても、一途なのと純粋なのは違う訳で、一途が過大になると、未来が狭ばまって行くことが多いい。(だたの自我になってしまう。)純粋なのは、基本的には、(意識や心の空間に)自然発生的な広がりが見えてくると私は思う。(やがて、その意識は、拡大も縮小も自由になる。(余談だが、自由になっているつもりの奴がいつのも事実だ。それほど無知ははびこっている。))
さて、ただ、広がりの中で、やむにやまれず、(キリストのように)身を削る人がいるのも現実、かな?。(人それぞれの業が絡んでくるので)それがどうなのか、良く見定めなければいけない。(また、永遠の命に対する気づきが弱い場合は、道の途中でも、煩悩と使命との区別すらつかない人も多い。増して、安心・喜び・幸せ・悲しみ・妬み・怒りなどなどの、感情の善性悪性の精妙な区別もつきにくいのだ)
ゆえに、銀二さんがいうような「幸せを知らない」という状況に落ちたら、多少忍耐はいるが、心の空間の綺麗な方のエネルギー(まっ透明な永遠の命)に少し意識をおいて、汚れと共に(汚れ許して)気にせずに流すのがいいと私は思う。(これが、神のみ心のままにと言う事だと思う。)やがて、最後に永遠の命に繋がるような綺麗なものは残るし、綺麗なものがなければ消滅するだろう。(心の空間の悪は、特に消滅しやすいと思う)
(人々の心が動いたり、現実が動き始めるのはこの時からだ。少しづつ御利益もついてくるようになる)
私は、善通寺の宿坊の部屋で、永遠の命からの善に通ずるように、静かに、静かに、そっと、そっと、瞑想をした。・・・つづく。