(長く更新できなくてごめんなさい。)
そのあと、私は板前の銀二さんと、本山町方面へ向けて山道を下った。銀二さんは携帯電話を持っていて、毎日、家族とよく連絡を取っているみたいだった。彼が、
「まったくねー、頭にくるんですよ。」下を向いてつぶやく。私は低い声で、
「どうして?。」と聞いた。彼は、
「昨日なんか、心配するといけないから、家に電話するでしょう。そしたら、おふくろが一緒に旅をしているつもりになってて、地図を見ながら、『今度は、ここね。』なんて言うんですよ。」口を尖らす。私は、
「家族の愛があって、良いじゃないですか。母の愛と、お大師さんの慈愛と、あんたで、変形同行二人ですよ。お互いに安心するでしょ。」と、軽く慰めると、彼は、
「簡単に、かるーく言うんですよ。歩くつらさなんて、ちっとも分かってないくせに、愛じゃないですよ。」目で訴える。・・気持ちは分かる。
修行とは全く別のほのぼのとした空気が流れていた。
彼は信仰でもなく、求道でもなく、行き詰まりでもなく、入社の時の約束で歩いて来たのだ。まだ、自己犠牲を飴で包んだような見習い中の料理職人なのかな?。
それでも、彼が、何かの愛を感じて、安心して、ほのぼのとする。それは、世俗の中の家族という空間で、いい感じの気の流れかもしれない。そこに正当な慈愛があれば、なお良いと思う。なので、お大師さんの慈愛と同行二人で、銀二さんは良い遍路旅をしていると私は思う。
永遠の命からの慈愛を感じて、体の芯がほーっとして融けて行くような安心感を感じ、それが本当の命の喜びを自覚させ、普遍性のある至福意識に入る。この法輪もなかなかいいかも。・・・つづく。