と言うと、彼は、

「自分の魂に聞く、とか言っても、本当に聞ける人が、どれだけいるんですかね。自分を探しきれない人も多いでしょう。ならば、誰かを頼るという事になるんでしょうが、これがまた、確かだと思っている人のアドバイスを聞いてみても、その人の世界観において、成り立ってることが多いですからね。

 文学だって、科学って、数学だって、現実の中で、見えたものを、世界観として表しているんだと思うんですよ。死霊とか浄土とかが見えなきゃ、科学にならないんですよ。」

と言うから、私は、

「確かに、そうだけど。見えなくても、普遍的基盤からの永遠の命の流れやエネルギーの流れは、道理だからね、それがなくなることなないでしょう。道理って、生命の道のことわり、ですからね。

 人間にとって、道理の根幹は、究極、自然法的な気の流れでしょう。それは、感じる時と感じなくなる時がありますけど、流れていれば、一緒でしょう。

 ただ、意識範囲が狭かったり、汚れていたりすると、煩悩の流れになっていることの方が多いと思いますけど。」

と言うと、彼は、

「まぁー、人の心も、天のさばきも、心の奥底では分かってるんでしょうけど、この世では、多くの人が無知を抱えて動いているから、現実の結果を求めて、賭け見たいな形になるか、どこかにストレスと共に押しつけるような形になるんでしょうね。つらくなったり、いやになったりする人が多くいる訳ですよ。」

と言う。私は、静かな心持で、

「うんー。そういう人は、言葉にすれば言いたいことは、心のひだの数だけあるんでしょうね。でも、ひとくくりにすればそうかも知れませんね。・・・私もそうだったんでしょうね・・・。つらいのかなぁ、言いたいのかなぁ、分かって欲しいのかなぁ。どんな結果がでても、現実の結果ではないところの、自然法則上の、あるいは、宇宙法則上の、思いの晴れる時を待っているんでしょうね。生きた証としての心の晴れる、胸の張れるダルマが湧いてくるのを待っているんですね。」・・『がんばろうねぇー。』・・・つづく。



(ちなみに、いやな感じのする霊などを、感じてしまった時は、 おん ぼく(ボック) じんばら うん。と三回は唱えましょう。楽になるかも。参考までに)